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天橋立駅舎

丹後の観光拠点駅。駅に着いたら白砂青松をデザインコンセプトとして、平成27年5月にリニューアルされました。

知恵の湯

天橋立駅横にある宮津市内唯一の外湯「智恵の湯」は、「三人寄れば文殊の智恵」で有名な日本三文殊の一つ智恩寺文殊菩薩の智恵と健康が授かりますようにと命名された。

​松並木

天橋立の危機

外海との往来に不利な条件を負いながら、沖打網・さげ網・四人網・小網などを使用して漁業につとめた。阿蘇海の金樽(金太郎)鰯は有名である。享保12年に阿蘇海で当村の漁師が鰤をとる珍事があったが、天橋立の洲崎が延びて内海がせばまり漁獲高が減少したため、天橋立切断の議論が住民の間に起こり、橋立存続をめぐって漁師と藩や橋立を支配する文珠智恩寺との間で争論が絶えなかった。

三井長右衛門 天橋立を守った人

天橋立は、3.6キロの細長い砂州で区切られ、宮津湾と内海の阿蘇海に隔てられます。

わずかに、南側の岸近くに2本の水路で結ばれただけで、船を通すために、回転する「廻船橋」があります。この美しい景色を権力者の都合により、無残にも途中で断ち切られてしまうという企てがありました。

何より軍部が優先される、日中戦争前夜に起こったできごとで、勇気をもってその暴挙を阻止したそうです。

三井長右衛門が、宮津町長に就任したのは、昭和10年10月。6年間の在職期間に下水道埋設、地下防火槽の設置、普甲峠の開削、丹後半島周回道路の開削まどなど今日の自動車の時代を予見した、次々公共事業を進めました。

戦後、岩崎英精氏によって明らかにされたのは、昭和12年日本軍が上海事変をきっかけに中国本土へ戦火を広げていった時期です。

陸軍大将林銃十郎内閣の商工大臣伍堂卓雄は、軍需物資の増産を目論見、阿蘇海の南西にある日本冶金が大江山のニッケル鉱を精錬していることに目をつけ、橋立を切断して大型船を直航できるように計画し宮津に乗り込みました。

会談には、宮津からは、町会議員、町会役員など町民の代表が呼ばれ、みな不安な面持ちで席に着きました。

政府のひと睨み縮じみ上がると思った伍堂大臣の前に一番前に座った宮津町長三井長右衛門は、少しも動揺せず「後日改めてお返事を」と、首をタテに振りませんでした。

2回目は、三井長右衛門ひとりだけ呼ばれ密室での会談となり圧力をかけられたでしょう。

「戦は一時期のもの、100年続くわけではない。だが、橋立を切断すれば元には戻らない」との持論を粘り強く交渉し、とうとう伍堂大臣はあきらめました。

この日、主張が受けいれられなかったらその場で自害するつもりで、懐に三井家に伝わる短刀を忍ばせていたそうです。その後、陰湿ないやがらせが続き、町会議員の切り崩しもあり、三井は昭和19年失意のうちに亡くなりました。

成相寺より

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