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宮津繁栄(まちなみ)

江戸時代、宮津は北前船航路の港町で城も築かれ、17世紀頃に京極氏が宮津に入った頃に城下町が形成され、この整然とした町割はそのためで、海に位置することから、商業も発達していった。

丹後宮津の名は港町として各地に知られ、丹後一円で盛んであった縮緬産業などの地場産業も栄えていて、今に残る古い町並はその頃の佇まいを僅かに伝えるものとして貴重なものです。

宮津の繁栄は、丹後ちりめんや海産物、醸造産業に支えられ、日本海を西へ東へ走る北前船の港町として、産物を商う回船問屋や、納屋町には幾つもの大きな蔵の建ち並ぶところとなりました。      

また、日本三景を一目見ようと集まる旅人、そしてその人々が泊まる多くの旅籠など、 日本海側有数の港町として賑い、全国津々浦々に知られるところとなりました。 

今なお唄われる宮津節も、人々にとって魅惑的に栄えた宮津の町を象徴するものとして生まれ、唄い継 がれて来たものです 

「旅宿茶六」を始められたのは江戸時代享保年間で290年前で、 大正前期に建てられた現在の「茶六本館」は国登録有形文化財に認定されました。

 建物は、明治までは2階建て、大正時代に3階建に改築し、さらに昭和初期に増築をされています。

 切妻造りの当初部分と、入母屋造りの昭和の増築部からなる典型的な3階建て木造旅館です。1階に出格子があり、特徴的な天井や欄間、階段の手すりなど、各所に昔の文化や職人技を感じる、昔ながらの瀟洒な意匠が見られます。

国の登録有形文化財の木造3階建てです。

老舗和風旅館は「清輝樓」で、宮津湾側に建つ典型的な木造3階建ての旅館。

 創業は元禄年間 (1600年末)と古くから天橋立観光を支えてきた旅館で現在の建物は明治半ばに建てられたものがもっとも古く、およそ100年の以上経っています。

 東面が玄関で、海側の北側と西側に客室、南側3階に百五畳敷の大広間をもつ広間棟があります。

60畳と45畳の二つの大広間は格子の格天井、大床柱、違い棚など当時の建築の粋をつくしたものがそのまま残っていて圧巻です。

国の登録有形文化財の木造2階、一部3階建です。

「袋屋醤油店」は約300年にわたり伝統の醤油を製造し続けられ、現在も「あしぎぬ」という銘柄の醤油は多くの人々に好まれている。他の商家と同じ様に切り妻造り、平入り、桟瓦葺、2階建て、虫籠窓、一階二階共に格子、煙出しであった。

享保年間(西暦1716年~1735年)の京都の文献に『宮津の袋屋が京都のしょうゆ市場を荒らして(席巻して)困る。』と記してあるそうで、すでに300年前には『丹後・宮津に袋屋あり』と有名だった様子が伺えます。

「今林家」は、延享年間(1744~48年)より宮津に存在し「かなや」の屋号を持ち、糸問屋を主に、廻船[北前船]、倉庫業、縮緬商、米、砂糖などを販売、更には酒造、醤油製造し、販売していた。

文化13年(1813年)五代目今林仲蔵が糸問屋を再興し、また縮緬問屋として藩御用達を拝命、苗字帯刀もゆるされた名主役でも活躍した。

​白壁に格子戸という昔の情緒を今もなお残している 旧宮津城下の宮津町家を代表するひとつ

 城下町宮津は、名勝天橋立をひかえ昔から観光の町として、また北前船航路の港町として、江戸時代以来発展を続け、貝原益軒の西北紀行に「京より二十八里あり、町すこぶる広し、海辺にて魚塩器材乏しからず、諸国の船ここに集まる。ゆえに商家富めり……」と書いているのを見ても、元録時代の盛況が伺える。

 

今でも伝統的な町並みが、西河原通り、白柏通り、万町通り、魚屋町通りがあり、宮津には京の祇園と肩を並べるほどの数の芸妓衆がいたと伝えられ、新浜通りには宮津節に唄われた「縞の財布が空になる」花街で、天保13年(1842)にひらかれた「新浜郭」の 宮津市新浜には今でも格子の町屋があり花街の風情が残っている。

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