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宮津祭り(和貴宮神社)

 

和貴宮神社は昭和中頃以前は分宮神社と呼ばれていた。           

江戸時代初期に藩主・京極侯が一宮籠神社の分霊を現在の地に祀ったことに由来し、延宝4年 (1676) の宮津氏子区域の記録では京街道、東堀川より西が山王氏子とされ、分宮氏子は田町、紺屋町とされ祭礼は江戸時代後期まで行われていなかった。     

      

文政10年 (1827) に職人町(宮本町)・万町・本町・魚屋町が分宮の氏子となることによって祭礼が整えられ、漁師町により執り行われていた山王祭の浮太鼓が伝承されて執りおこなわれ、幕末の文久元年 (1861) には宮津藩より許された神輿が、初めて城内に入った記録が残されており分宮例祭は秋の祭であり東祭と呼ばれ、東祭には神楽・神輿・浮太鼓を賑やかに執り行い、春の宮津祭(山王祭)に於いては山屋台・芸屋台を繰り出して子供歌舞伎が演じられていた。

 

 

​大神輿

​子供神輿

​太神楽

​浮太鼓

浮太鼓(うきだいこ)は笛と締太鼓で打ち鳴らされ浮とはうかれるとのことで、太鼓を屋台に乗せて巡行する現在の形は寛政10年 (1798) より始められたもので、執り行われる中で各町が独自に特色を出し、打ち方など様々な変化が見られ、宮入り以降も夜遅くまで打ち鳴らされ賑やかな様は、打ち手が祭を楽しんでいます。

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