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【見性寺】

見性寺は俳人与謝蕪村と縁のある寺院として知られています。

当時、見性寺に住んでいた竹渓と友人関係だったとされ、宝暦4年(1754)、蕪村39歳の時当寺を訪れ、42歳までここを拠点にして周辺地域の知見を広げています。この間、様々な画作を残しており、俳人だけでなく画家としての才能が開いた時代とされています。

現在は入母屋、桟瓦葺、一間一戸の鐘楼門しか当時の建物は残ってなく、境内には蕪村の「短夜や 六里の松に 更けたらず 」の句碑が建立されています。

【智恩寺】

 文殊堂は、日本三文殊の1つで、境内には1767年に建てられた山門や、室町時代に建てられた多宝堂などがあり、貴重な古建築があります。 

 何度かの修理を経て、現在の文殊堂は1655(明暦元)年に開始された、宮津藩主京極高国による修理後の姿です。

【菊姫稲荷】

 朽ち果てる寸前の雰囲気のお稲荷さんは、丹州皿屋敷の怪談話の伝承地となっています。 

 今から二百余年前の宮津城主青山氏の一族に青山近江守幸澄 という者がおり、その妾と家臣との不義密通から、養子鉄之助の自殺事件へと発展し、播州、番町の幽霊話が有名ですが、ここ宮津の皿屋敷話が古く、本家が有名でないのは藩主(城主)が、この話を隠したが後に幕府に知られてしまう。 この鉄之助の自殺話と別に、お菊を斬り殺して井戸に死体をほおり投げた話もあり、江戸時代の宮津は江戸や播州からの人も多く、このお菊の幽霊話を戯作者がもちかえり、有名にしたらしい。残念なことに、今は昔の姿はなくなってしまいました

【麓(ふもと)神社・千躰地蔵】

 元伊勢籠神社の山裾に、市辺押磐皇子の子、弘計・億計皇子が逃れたとされる「麓神社」と呼ばれる社があり、元伊勢籠神社・真名井神社とも近く、 二本の太い古木と子供を抱えた狛犬があり、456年に眉輪王(まゆわのきみ)の乱に始まり、皇位継承争いが熾烈化し、雄略天皇は、皇位継承候補者を次々と暗殺するなか弘計・億計皇子は、家臣に連れられ、豊受大神を祀る丹後(京都)の豪族に助けを求めたそうです。 

また、麓神社の脇道を上ると「千躯地蔵」が安置されています。天保12年(1841)の記録によると、応永年間(1394~4271)に大江越中守によって造られた千躯の石仏が地中に埋まり、それを掘り起こしたと記されており、江戸時代後期には存在が認識されていたそうです。

【カトリック宮津教会】

日本で2番目に古い天主堂「カトリック宮津教会」があり、現在でも毎週ミサが行われています。

 明治21年に宮津にやってきたルイ・ルラーブ神父は丹後地方のカトリック教会の創始者としてパリ外国宣教会より日本に派遣され教会を創設しました。 

 今残っている教会の建物は地元の旧家の寄進で、当時としては珍しいフランス風の建物で、しかも畳敷きという構造の和洋折衷ロマネスク式の聖堂が建てられ、ドーム式の天井は当時の船大工が作ったとの事です。

 また、フランス直輸入のステンドグラスが 開閉式になっているところも明治中期の面影も見られます。

【真名井神社】

 神代の昔、大和国から天照大御神が初めて遷ったのがここ真名井神社と言われ、その後天照大御神と豊受大御神は共に真名井神社に祀られていました。神様の世界の水で”天の”真名井の水だそうで、『真名井の水』は有名人もご利益を求めて訪れたり、また縁結びでお越しになられたりとパワースポットとしても知られており、近年では某女優がお越しになり良縁に恵まれたとの話もあります。公開されている写真もありますが、神域の為今は撮影禁止となっています。

【如願寺】

創建は万寿元年(1024)、皇慶上人(比叡山延暦寺の僧)が開いたのが始まりと伝えられています。

丹後守護職一色氏の家臣小倉氏から庇護され寺運が隆盛しましたが、一色氏と細川氏との兵火により30余りあった堂宇が尽く焼失したことで衰微します。

その後、領主となった細川忠興が天正年間(1573~92)に再興し、寛文12年(1671)に当時の宮津藩主永井尚征が祈願所として庇護し堂宇を再建しています。

現在の本堂は寛文12年(1671)に再建されたもので棟梁は冨田平左衛門尉茂平で当地方に現存する阿弥陀堂建築としては最古級の古さで、宮津富田大工が手掛けたもので年代が明確の建物としては最初期のものとされます。

寺宝も多く木造薬師如来立像や木造皇慶上人坐像などが宮津市指定文化財に指定されています。 

【元伊勢籠神社】

崇神天皇の時代、天照大神が笠縫邑(かさぬいむら)という場所から与佐宮(よさのみや)に移り、豊受大神から御饌物を受けていた。その4年後に天照大神は伊勢へ移り、後に豊受大神も伊勢神宮へ追ったため、「元伊勢」となったそうです。

そして、養老3年(719年)に真名井原から現在地に遷座して主祭神を彦火明命とし、豊受・天照両神を相殿に祀り、社名を籠宮に改めたことに始まる。

そして、真名井原の元の鎮座地は摂社・奥宮真名井神社とされ、後に海神・天水分神が配祀され、御祭神が籠に乗って雪の中に現れたことから「籠宮」という社名になったという伝承があります。

【住吉神社】

正面から朝日が昇り、栗田海水浴場の砂浜に一の鳥居・灯籠が建立され 神社入り口には二の鳥居が立ち、80m程西に延びる参道奥に本殿が建立されています。

参道途中には二対の狛犬がおり、又拝殿には「蟹ヶ杜」と書かれた額が掲げられており、舞鶴に近いことから東郷平八郎をはじめ旧日本海軍舞鶴鎮守府の幹部が参拝し、その伝統は現在の海上自衛隊舞鶴地方総監部にかわってからも引継がれているそうです。 

 住吉神社は延喜年間(905年)の創建と伝えられ、現在の社殿は天保15年(1842年)に建設されました。

 

智源寺

智源寺の創建は寛永2年(1625)、初代宮津藩主京極高広が母親の菩提を弔う為、心庵盛悦善師を招いて開山したのが始まりとされます。

法名の惣寺院殿松渓智源大禅定尼から寺号を智源寺とし藩主京極家縁の寺院として寺運が隆盛し、領内曹洞宗の僧録同として末寺67ヵ寺を擁しました。京極家が移封後も歴代宮津藩から庇護され文化8年(1811)には当時の藩主本荘宗発より聖観音菩薩立像が奉納されています。現在の本堂は寛政9年(1797)の火災後の文化元年(1804)に再建されたもので、天井画は円山応挙十哲の1人が描いた花鳥図の傑作とされています。

【成相寺

成相寺は日本三景天橋立を眼下に望む景勝地にあり、真応上人の開基または聖徳太子とも伝えられています。

元々は日本古来の山岳宗教の修験場で、日本全国にある五つの「聖の住む所」の一つとして信仰を集めてきました。成相寺が開かれた年代は不明な所が多いですが、いにしえの願いが叶う寺として全国に広まり、慶雲元年(704)に文武天皇の勅願寺となりました。

盛林寺

上宮津城主、小倉播磨守の菩提寺として天正5年(1577)宮津大久保谷に創建された。

開山は趙室宋栢(ちょうしつそうはく)和尚、それをたすけた小倉氏は、丹後守護一色家の重臣で、小倉氏は、天正六年十月、細川氏に敗れて滅んだ。

細川氏は天正八年八月、丹後の大名として入国、宮津城をつくり、盛林寺はその庇護をうけ、盛林寺が大久保谷から上宮津に移ったのは慶長八年(1603)、場所は現在地の南に隣接する「寺谷」で、盛林寺が大久保谷から上宮津に移ったのは、慶長八年(1603)、場所は南に接する「寺町」で当時細川氏は九州中津(大分県)に移った後であり、更に現在地に移ったのは、貞享二年(1685)であった。

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