【大江山の雲海】

母親の和泉式部は、夫藤原保昌とともに丹後に下向しており、藤原定頼が歌会の前日に小式部を訪ねて、 

「歌はどうするの?お母さんのいる丹後国へお使いは出されましたか?」と、からかった時によんだ歌で,踏みに文をかけ、行くに生野をかけ丹後への道中にあるゆかりの名所を読み込み母への想いも謳っています。

都から丹後の地はあまりにも遠く、大江山は京都市西京区の老野坂とも、京都府北部の大江山ともいわれ、

生野は福知山市にある地名です。

丹後天橋立大江山国定公園にあり、全体を大江山連峰と呼ぶため大江山と呼ばれる頂上はなく、

連山に鍋塚、鳩ヶ峰、千丈ヶ嶽、赤石ヶ岳と呼ばれる峰があり、千丈ヶ嶽が最高峰で832.5メートルの標高で丹後地方最高峰で山腹にはブナが広がり山頂には笹原があります。

また、『大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天橋立』と百人一首で小式部内侍に謳われています

歌意は、大江山を越え生野を通って行くその道のりが遠いので、天の橋立は踏んでみたことも、母からの文も見ていません。

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【上世屋の集落と棚田】

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標高370mの世屋高原の中で世屋谷と呼ばれる地域の中心であった上世屋集落。

日本の里100選に選ばれ、また集落を含めた里山景観が京都府指定無形民俗文化財に選定されるなど、近年「かやぶきの里」として注目されています。

世屋地域は丹後半島有数の豪雪地帯で、集落は入母屋造りですが、合掌造りのように屋根勾配が急な造りとなっています。

【溝尻の舟屋(阿蘇の舟屋)】

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 舟屋と言えば、お隣の伊根が有名ですが、「溝尻の舟屋」は、伊根とは少し雰囲気が違った情緒と素朴さがあり遊覧船からも見ることができます。 

 外海との往来に不利な条件でありながら漁業につとめたが、阿蘇海の金樽(金太郎)鰯の漁獲量が減少したため享保の時代に、天橋立切断の議論が起こり、存続をめぐって漁師と藩や橋立を支配する文殊智恩寺との争論が絶えなかった 、伊根の舟屋ほど連なってはいませんが、網などを干していた砂浜が、今となればプライベートビーチ付きの舟屋で、目の前には、天橋立を見ることができます 。

 

宮津市内からですと、͡瀧神社方面に走れば少し手前に、溝尻地区があります

【今福の滝】

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「今福の滝」はすでに江戸時代中期の享保11年に書かれた、「丹後興佐海名勝略記」に紹介されており、古い時代からこの地方の名瀑として親しまれていたと思われます。また京都府景観資産に認定され、大小合わせて7段の滝があります。

 

京都縦貫自動車道の宮津天橋立INから大江山方面に少し行けば、京都丹後鉄道の喜多駅があります。その道を山沿いに行けば、フェンスで仕切られていますが出入りは自由です

【金引きの滝】

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  京都府で唯一日本の滝百選に選ばれているところで、向かって右側は「男滝」、左側は「女滝」と呼ばれています。

 「金引きの滝」には、1千年の昔、如願寺塔頭威性院により、金引山不動明王尊が勧請され 中世には、いくたびか血なまぐさい戦場ともなりまた旧藩時代は家士の心身修練の道場でもあったそうです 

昭和59年から30年間続いた「金引きの滝まつり」も残念ですが今は行われていません。

京都縦貫自動車道の宮津天橋立INを天橋立方面に走れば、すぐに京都府立宮津高校があり、山手のほうに民家の間を走れば、駐車場もあります

【山椒太夫屋敷跡(山庄太夫)】

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森鴎外の小説「山椒太夫」では、安寿と厨子王が丹後由良の山椒太夫の所へと売られたとありますが、今は歴史とともに屋敷もなく草に覆われた石垣のみになっています。

 「太夫」と名があるには、それなりの地位と格式を備え商才にも優れた人物であったかもしれない。また、付近に点在する古墳群もあり相当の勢力のある豪族の住居があったとも、近くには「柴勧進の碑」と「首挽松の碑」もあり,北前船の寄港地であったため、越後とのつながりもあり姉弟は丹後由良の地へと来ることになる。 由良川で、丹波・京へとの物流もあり、今は大部分が削り取られ島のようになっていますが、馬場など作業場もがあったそうです 

看板には『山椒太夫屋敷跡』とあるが、石碑には『山庄太夫屋敷跡』とあり、また宮津街道から由良、山椒太夫屋敷跡への古道もつながり七曲八峠の峠道は海岸沿いの奈具海岸道路の開通で役割を終えたそうです。

178号線を由良川沿いに走れば大きな看板があります

​近くには、安寿の里もみじ公園もあり、駐車場には安寿と厨子王像があります

【勘左衛門小路】

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 宮津市街地に昔海岸であった和貴宮神社から新浜まで、まっすぐ伸びる勘左衛門小路と名前が付いた細い路地があります。

関ヶ原の合戦の際に、宮津城主 細川忠興がほとんどの兵を連れ、城を離れていた隙に丹後に攻め込んでくるのを知り、留守の城を守る父の幽斎は、わずかの兵のため宮津城を焼き払い田辺城への籠城を決意し、その田辺へ戻る際、漁師達が人や荷物を送り届けたことで、その褒美として宮津での漁業権を授けられ、その漁師の中に、特別に海までの“みち“をもらいうけた者が勘左衛門で、この道が「勘左衛門小路」と呼ばれるようになった由縁であると、伝えられています。

【たもの木】

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 「この位置が宮津城の二の丸の北東端にあたり、城郭北壁の海岸線を示す」と記されていますが、樹齢300年を超すとみられるこの【たもの木】は一説では、宮津に寄港する際の目印でもあったそうです。 

また、京都府流域下水道工事が行われるとき、伐採の危機を防いだ関係者がおられ、現在のように歩道などが迂回しています。

【天橋立雪舟観展望休憩所】

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室町時代後期の画僧、雪舟がここからの眺望を水墨画「天橋立図」に描いたとされ、この「天橋立雪舟観展望休憩所」からの景観が「雪舟観(せっしゅうかん)」として知られています。

雪舟観だけではなく、宮津湾も一望できるので、大変美しい景色が広がります。

展望所は小さな休憩所があるだけですが、落ち着く雰囲気で季節ごとにちがった趣があり、一日の中でも朝夕や太陽の角度で、その瞬間ごとに景観は変わります。

また「みつばつつじ」の名所でもあり、4月中ごろが見ごろです。

 

【撥雲洞トンネル】

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宮津運動公園に向かうと歴史のあるトンネルがあります。

案内板には、明治17年に地元波路の賣間九米兵衛の主導で、計画が進められ、その後、施工方法に変更もありましたが、同年11月に栗田峠を掘りぬいて建設され、19年7月頃に完成し、余材の花崗岩で、宮津城下大手橋が石橋(めがね橋)に架け替えられ、開通式が行われたそうです。

京都府第3代知事による大規模事業で、「撥雲洞トンネル」は、宮津・丹後地域の近代化に貢献し、国内初期の近代トンネルで、「隊道開鑿首唱者 賣間九米兵衛の碑」と刻まれた石碑が近くに建てられています。