日本三景   天橋立  周辺の名所

【日本三景の謎】
昔より絶景の地として知られていますが、江戸初期1643(寛永20)年には「三所奇観」として、すでに規定されており、『日本三景』は、陸奥の松島、安芸の宮島そして丹後の天橋立ですが、この地域は多くの古代遺跡が存在し、家長クラスでも必ず鉄剣が出土するなどが特徴で、他の地域ではみられないそうです。

そして、最大の謎は、地図上で一直線に並んでいる「レイライン」であるという事実です。 『日本三景』のレイラインは、天橋立から見て、松島に夏至の日の出が昇り、また宮島に冬至の日が沈むことになります。
また、軍事的な拠点や信仰の中枢地として使われていたりと、太古の昔から文化や歴史に関わる重要な拠点が存在し、「天橋立」は、もともと元伊勢籠神社の参道として発祥し、古来より”天と地・神と人”とを結ぶ架け橋として信じられており、奥宮眞名井神社も国生み神話など重要であったことが窺えます。 ...
※《レイラインとは1921年にイギリスの考古学者が提唱し、古代の遺跡配置を見ると直線ラインで結ばれて並んでいる現象》で日本では、神社や磐座が多く、「太陽(天)の動き・断層や水脈の地球(地)の構造」が、その聖地を決めるポイントにもなっていたと言われています。

【日本三景碑】

【日本の道百選碑】

【廻旋橋】

船が通るたびに90度旋回する珍しい橋で、天橋立と文殊堂のある陸地をつなぐ橋で、大正12年に手動でまわる廻旋橋ができましたが、橋の下を通る大型船舶が多くなり、昭和35年5月から電動式となりました。

  ~「股のぞき」 イグ・ノーベル賞を受賞!~

 「股のぞき」によって物の見え方が変わることを研究で明らかにした立命館大学の東山篤規教授と大阪大学の足立浩平教授   が、「イグ・ノーベル賞」に選ばれました。

​「股のぞき」昇龍観それとも飛龍観どちらからご覧になられますか!   

 

【智恩寺】

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 文殊堂は、日本三文殊の1つで、境内には1767年に建てられた山門や、室町時代に建てられた多宝堂などがあり、貴重な古建築があります。 

 何度かの修理を経て、現在の文殊堂は1655(明暦元)年に開始された、宮津藩主京極高国による修理後の姿です。

【元伊勢籠神社】

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崇神天皇の時代、天照大神が笠縫邑(かさぬいむら)という場所から与佐宮(よさのみや)に移り、豊受大神から御饌物を受けていた。その4年後に天照大神は伊勢へ移り、後に豊受大神も伊勢神宮へ追ったため、「元伊勢」となったそうです。

そして、養老3年(719年)に真名井原から現在地に遷座して主祭神を彦火明命とし、豊受・天照両神を相殿に祀り、社名を籠宮に改めたことに始まる。

そして、真名井原の元の鎮座地は摂社・奥宮真名井神社とされ、後に海神・天水分神が配祀され、御祭神が籠に乗って雪の中に現れたことから「籠宮」という社名になったという伝承があります。

ご祭神について 天火明命:天忍穂耳命の御子神、瓊々杵尊の兄、太陽の光や熱を司る神、太陽神、農業神、多くの氏族の祖神とされる(尾張氏、海部氏、伊福部氏 他)、『先代旧事本紀』では、饒速日命と同一神とされている。

饒速日命:ニニギより先に十種の神宝を携えて降臨を果たしたとされる神、天火明命(ニニギの兄神)との同一説あり、鎮魂、健康の神、物部連、穂積臣、采女臣の祖神、宇摩志麻遅命の父神、降臨した時の天磐船が空飛ぶ舟という言われから航空系の守護にも迎えられることがある

豊受媛神:食物・穀物を司る女神

天照大神:皇祖神のひとつ、太陽の神

大綿津見神:海の守護神

天水分神:水の分配を司る神、水源地や水路の分水点に祀られる、子供守護、子授かり・安産祈願の神 

 

【真名井神社】

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 神代の昔、大和国から天照大御神が初めて遷ったのがここ真名井神社と言われ、その後天照大御神と豊受大御神は共に真名井神社に祀られていました。神様の世界の水で”天の”真名井の水だそうで、『真名井の水』は有名人もご利益を求めて訪れたり、また縁結びでお越しになられたりとパワースポットとしても知られており、近年では某女優がお越しになり良縁に恵まれたとの話もあります。公開されている写真もありますが、神域の為今は撮影禁止となっています。

【名水百選 磯清水】

磯清水は古くから天橋立にあって四周を海に囲まれていながら塩分を含んでいない事から名水としても名を馳せていました。

平安時代の歌人、和泉式部が天橋立を訪れた際も磯清水を利用しており「橋立の松の下なる磯清水 都なりせば君も汲ままし」の歌を残しています。

延宝6年(1678)には当時の宮津藩主永井尚長が弘文院学士林春斎の撰文碑を建立、昭和60年には名水百選に選定されています。

【橋立神社】

天橋立神社の所在する場所は、天橋立の濃松(あいまつ)と呼ぶ地点で、近くに真水がわく井戸があり、磯清水神社ともいわれてきた。本殿の祭神を豊受大神、左を大川大明神、右を八大龍王(海神)とする智恩地境内あったのをこの地に移したという説もある

【与謝野寛・晶子夫妻の歌碑】

与謝野寛の父親の出身が与謝野町加悦だった事から当地域が与謝野夫妻にとって馴染み深く、天橋立にも何度も訪れ昭和5年には寛が45首、晶子が60首の短歌を残しました。又、晶子の最後の旅先が天橋立だった事からも天橋立は与謝野夫妻と関係が深い土地柄と言えます。

 

「 小雨はれ みどりとあけの虹ながる 与謝の細江の 朝のさざ波  寛」            「 人おして 回旋橋のひらく時 くろ雲うごく 天の橋立  晶子」

【涙ヶ磯(身投げ石)】

勘当された花松は、悲観して天橋立・涙ケ磯から身を投げたが、運良く筑紫の船に助けられ九州で修行し立派な僧侶になり、この地に帰ってきました。

一方、子を失った父は狂乱し全国をさすらう物狂となりました。

花松は、家は荒廃し父は行方知れず、悲しみにくれながら文殊堂で説法をしていると、そこに「ささらやつばち」を首から下げた物狂がやってきました。

互いの身の上を語る中、父子とわかった二人は抱き合い泣き崩れたそうです。

「ささらやつばち」

“ささら”は、簓(ささら)富山五箇山地方の民謡「こきりこ節」で、歌って踊る際に用いる民俗楽器と似たような物。

”八撥(やつばち)” 放下(ほうか)とよばれる中世の遊芸者による羯鼓(かっこ)の芸能のようです。

天橋立の近くに住む岩井左衛門は子宝に恵まれず、智恩寺・文殊堂で願掛けをしました。

ある夜、文殊菩薩に花を添えた松の枝を頂く霊夢を見ると、ほどなくして授かった男子を夢にちなんで花松と命名。その後、学問修行の為、成相寺に上がらせていたが、学問の具合が気になり、ある日呼び戻し尋ねた岩井はその優秀さに驚き喜びますが、家来から宴会芸が得意と聞かされると、怒りにまかせて勘当しました。