代わって信濃飯山藩より青山幸秀が入封した。

第2代藩主・幸道は宝暦8年(1758年)、美濃郡上藩に移封となるなど、目まぐるしく入れ替わった。

青山幸篤生没年:1725-1778父:丹後宮津藩初代藩主 青山幸秀1741 従五位下1741 播磨守1744 廃嫡正室:青山幸道生没年:1725-1779父:丹後宮津藩初代藩主 青山幸秀通称:主計1744-1758 丹後宮津藩二代藩主1744 従五位下1744 大膳亮1758-1775 美濃郡上藩初代藩主1760 大蔵少輔1763 大和守正室:(父:信濃松本藩初代藩主 戸田光慈)男男側室:1752-1808 幸完幸卓幸賢妻木頼功娘(陸奥三春藩七代藩主 秋田倩季室)娘(青山幸発室)

享保2年(1717)正月、信州飯山城主青山大膳亮幸侶が四万八千石で宮津へ所替えになったという通知がきました。 

町総代、職人町の嘉左衛門と、河守の大庄屋理兵衛の両人が挨拶のため3月4日出発し、4月18日に帰国しました。 

飯山で御祝申し上げ更に江戸へまかり出て殿様にお目にかかり、御献上物を差上げたところ、御料理を下さって、其の上、御祝儀に両人は銀子十枚をいただいて帰りました。(宮津日記)  青山氏の采邑は本領四万八千石、新田三十五石三斗六升七合であったが、その後再三検地を行い六百八十二石八斗二升七合の改出があった。 

青山氏から次の宮津藩主松平氏(本荘)に、宝暦9年(1759)6月に引継がれたものが幸い与謝郡役所に残っていた。 

岩滝分を次に登載しておこう。 

丹後国郷村高帳 

同国与謝郡内 

高千三百三十三石五斗七升七合 弓木村(内二十五石九斗六升五号 新田改出)(外に六石 新田)  高千二百七石九斗一合 岩滝村(内四十六石三斗一升九合 新田改出)(外に二石三斗五合 新田) 

高千六十一石一斗二升七合 男山村(内二十石三斗六升九合 新田改出)(外に三石九斗六升 新田)

当時、与謝郡の六十九ヶ村中、千石以上の村は石川村の三千六百六十三石八斗三合を筆頭に、須津、下山田、上山田、四辻、幾地、弓木、岩滝、男山、明石(あけし)、三河内、温江(あつえ)、滝の十三ヶ村であった。(野間雲原村を含む)

青山幸秀 あおやまよしひで 

1696~1744(元禄9~延享元)、幼名藤次郎、従五位下、大膳亮

摂津尼崎4万8千石→信濃飯山4万8千石→丹後宮津4万8千石 

先代幸督の嫡男で、宝永7年(1710年)に父幸督の死去により襲封、正徳元年(1711年)2月に信濃飯山に転封となる。

 飯山に転封直後の4月に城下に大火があり、復興費として幕府より2千両を貸与された。

 享保2年(1717年)に丹後宮津に転封。享保9年(1724年)に叔父幸澄の養子となっていた弟幸能が自害し、この事件で幸秀は幕府より叱責を受け、一時出仕を控えさせられた。延享元年9月8日に49歳で死去した。

 青山家は幸秀と幸道の2代に渡り宮津に在封したが、この間に丹後縮緬が宮津に広がった。加悦谷三河内村の山本屋佐兵衛と加悦の手米屋小右衛門が京都西陣に行き織物の技術を得て帰国後に広めたものという。

 縮緬は丹後地方に急速に普及したが、その背景には圧政や飢饉があったともいい、宮津藩では縮緬の普及により農耕が疎かになることを警戒したという。

青山幸道 あおやまよしみち 

1725~1779(享保10~安永8)、幼名鎌次郎・主計、従五位下、大膳亮、大蔵少輔、大和守

丹後宮津4万8千石→美濃郡上4万8千石 

幸秀の子として宮津に生まれる。庶子であったが幸秀の長男・二男は早世、三男幸篤は病弱の為に幸秀の嫡子となり

、延享元年(1744年)幸秀死去により家督を継ぐ。宝暦8年(1758年)12月美濃郡上に転封となった。

 美濃郡上は金森氏の失政により宝暦の郡上騒動といわれる大規模な一揆が起き、金森氏改易の後をうけての転封であった。

 幸道は入封後法制の整備を手がけ、領民や家中の生活を規制し綱紀を正すように努めた。安永4年(1775年)12月11日に嫡子幸完に家督を譲り隠居、安永8年10月晦日55歳で死去した。