宮津繁栄(北前船)

丹後の宮津

 京都府北部、宮津湾・天橋立に、丹後国の国府として七万石の城下町宮津が作られたのは、 元和8年(1622年)から寛永13年(1636年)までの約15ヶ年で、今から400年も前のことである。

それまでの寂しい漁村から、一躍戸数2000軒、新城下町人として集められた6300人を含め、 人口約1万人、七万石の城下町は、新領主京極高廣により作られた。

 城郭は、東西を岸壁に挟まれ、大江山を越えなければ攻め入ることの出来ない自然の地形を利用して、 宮津の中心を流れる大手川の中洲に築かれました。

その後の宮津の繁栄は、丹後ちりめんや海産物、醸造産業に支えられ、日本海を西へ東へ走る北前船の 港町として、産物を商う回船問屋や、納屋町には幾つもの大きな蔵の建ち並ぶところとなりました。

また、日本三景を一目見ようと集まる旅人、そしてその人々が泊まる多くの旅籠など、 日本海側有数の港町として賑い、全国津々浦々に知られるところとなりました。 

【大正初期の丹後由良湊】

【明治末期の丹後由良湊に停泊する北前船】

北前船 

 帆を張って幾隻もの船が海原を行きかい、荷積みや荷下ろしで活気を呈した港町のにぎわいを感じさせる。

北前船の定義は諸説あるが、江戸中期から明治時代にかけて日本海側地域と大阪・瀬戸内地域を結んだ商船といえる。

北海道でとれたニシンを加工した魚肥や各地の米、瀬戸内の塩などの産物を載せて行き来した。

京都府北部の船主としては、宮津藩御用を担った商家や生糸・ちりめん問屋から進出した商家が知られ、造船技術面からも魅力がある。

北前船、菱垣廻船、樽廻船も船型としてはすべて同じで、また江戸時代の大型輸送船を千石船といいますが、これも船の種類としては弁才船です。

また北前船の代表的なサイズは千石船で、なお日本海側では北前船と呼ぶことはなく、瀬戸内や上方の人間が、北前の地域の日本海からやってきた船を指して呼んだといいます。

(北前船が交易船として日本海にでてくるのは18世紀後半頃で、300~600石積の弁才船が一般的)

この千石船の「千石」とは穀物に使う石とは違い、容積を示す単位で1石は0.28立方メートルですので、千石は280立方メートルになります(積載重量150トン)。

 

千石船の帆の横幅は18×20m、帆柱高さは27m、全長が29.4m、幅7.4m程で、江戸後期から幕末にかけては1600石、2000石の大型船も登場しました。

ちなみに諸大名の水軍力削減のため、1635年に武家諸法度を改正し、「五百石以上之船停止之事」と、西国大名から500石以上の船を没収、3年後には「しかれども、商売船は御許しなされ候」との新解釈を通達しています。

 

「弁才船」という形式の船が江戸時代に普及し、北前船の主流になったとされる。

日本海を東西に巡る北前船開運で賑わった港町宮津には、「二度と行こまい丹後の宮津 縞の財布が空となる 丹後の宮津でピンとだした」と宮津節に唄われて、全国に広く知られ繁盛した新浜遊郭があった。

北前船は、もともと北国の船をさし、大阪商人の船主の船で同じ北海道航路に就く船は、厳密には「北廻り地船」といって区別している。

この場合北国の地域が、南は丹後(宮津)、北は越後(新潟やそのやや周辺)までとするようで、 すなわち丹後、若狭、越前、加賀、能登、越中、越後、佐渡等の所在地とする船主の船を北前船という。  

北前船の盛況ぶりが続く、明治の前半まで、これらの地域の小さな海岸の村々でも船主が住み、その数は実に多くその時代の北前船文化をもたらした。 

【常夜灯土台石由来を記す石碑】

【常夜灯の土台石】

新町近くに常夜灯の土台石が残っています。          (土台石の上の建造物は、後に構築されたもの)

【見返りの柳】

『宮津節』に歌われた「二度と行こまい・・」の、モニュメントが建てられている

宮津新浜遊廓

 この遊廓は、幕末の天保十三年(1842)、時の宮津城主本荘宗秀が、それまで城下町にちらばっていた茶屋を、町内の風儀を悪くするとの理由で、集めたのがはじまりであった。

それから一時万年町へ移して、万年新地といったが、明治三十年前後ふたたび現在の地域へ移ってきたもので、ここは発展の一路をたどっていた。

ことに古い港の色町として、日本海を東西に廻るかつての和船頭たちが、ふかくなじんで宣伝したことが、いっそうひろく全国津々浦々に「二度といこまい丹後の宮津、縞の財布が空となる- 丹後の宮津でピンとだした」とひびき、これが一段と人々を二度三度引きつける宣伝となった。

遊郭街は、かつてはたいへんに繁昌したが、この地はずっと格が高くて祇園芸者に次ぐと、それなりのポリシーと芸をもった宮津芸者のお座敷芸者文化の場所であったという。

文化8年宮津町に遊女屋が許可されて歓楽街として栄えた。

また、今から100年以上前の明治42年(1909)に、ドイツ人 旅行家でのちに従軍記者、ベストセラー作家になったベルンハルト・ケッラアマンが、シベリア鉄道に乗って日本を訪れ、東京・横浜・京都・宮島・大阪等を「日本印象記」を記しました。

この旅でどこが一番気に入ったか?・・・それは「丹後の宮津」であるというのです。

宮津の芸子さんの給金は、一時は京都の花街である祇園よりも高かった時期もあったそうで、宮津節の『二度と行こまい丹後の宮津、縞の財布が空となる、丹後の宮津でピンと出した・・』という一節がありますが、ケラーマンはまさに大尽遊びをして散財したと伝えられています。

北前船資料館

日本海側と大阪を結ぶ航路で活躍した、宮津市由良地区の北前船に関する『北前船資料館』があります。

幕末に地元で造船された北前船の木製模型や、由良北前船との関連した古文書、当時北前船航路図展示され、船頭貴重品保管する船箪笥羅針盤などが展示されています

 

江戸時代には、由良の湊千軒と言われ遠く、北前船の船主・船頭衆の出身地でもあります。

かつて由良地区で建造された北前船「永徳丸」の図面などを参考に、実物の15分の1のスケールで仕上げたヒノキ製の模型(全長1・85メートル、幅0・55メートル)と、地域の神社に奉納された船絵馬を、再現した色鮮やかな模写絵も並べられている。

北前船は、江戸時代後半から明治時代中頃まで主に、日本海側から瀬戸内海周辺を航路とした商船で、明治時代の由良の船頭による航海日誌では、丹後・若狭から越後・出羽間を往復し、そうめんや木綿、雑貨などを輸送していたと記録されています。

今林家は江戸時代から「かなや」を屋号とし、糸問屋を主に、廻船[北前船]、倉庫業、縮緬商、米、砂糖などを販売、更には酒造、醤油製造し、主に京都で販売していた。

また、名字帯刀を許され、町名主、御用商人であった。

 旧宮津城下の宮津町家を代表するひとつ

 重要文化財旧三上家住宅

江戸時代に廻船業で富を築いた旧家で酒造業も営み、のちには宮津藩の財政にも深く関与する家柄にあり、幕府巡見使の本陣としても利用され、専用の門なども残っている。

 

河原町通りに面して屋敷を構え、妻入の主屋を中心として南側に新座敷、庭座敷を連続し北側に釜場と酒造蔵などを配している。

 主屋は天明3年(1783)の宮津大火で類焼したが同年に建てられ、新座敷は文政3年(1820)、酒造蔵は文政13年(1830)、庭座敷は天保9年(1838)の建設で、   商家としては規模も大きく主屋に加え、別棟で建つ接客空間も上質なつくりで、酒造蔵や釜場などの施設もよく残り高い価値がある。

 主屋は徹底した防火構造の採用や隅扇垂木の軒廻りなどに特色があり、建築時の状況も普請関係文書から知ることができ貴重な遺構である。