宮津と本荘家とのつながり

 京都は東南部は山代、西北部は丹波・丹後の国造が支配していましたが、大化の改新で山背(城)国・丹波国となり、713年に丹波から丹後国が分置されました。

794年には山城に平安京が造営され、以後1868年まで日本(朝廷)の国都となりました。

『延喜式』では山城は8郡、丹波は6郡、丹後は5郡と平安朝期には各地に荘園が混在していました。

鎌倉初期には京都に京都守護、六波羅探題が置かれ、丹波(主語は北条一門)・丹後(守護は長井家)をも管轄しました南北朝期には足利家が京都に幕府を開き、丹波・丹後は仁木家や山名家などが守護に任じられました。

足利義満は室町邸を造営して幕府の政庁とし、山城守護は侍所の管轄となり、南北朝合一後、丹波は細川家、丹後は一色家が守護を世襲しました。戦国期には細川家が管領として京都で足利将軍を補佐しましたが、内紛により被官三好家、さらに松永久秀に実権を掌握され、丹波では波多野家が勢力を拡大しました。

織田信長が入京すると三好・松永勢を制圧し、1573年には室町幕府を廃し、丹波を明智光秀、丹後を細川藤孝に与えました。

豊臣秀吉は山崎合戦で光秀を滅ぼすと、山城・丹波に中小大名を配置し、江戸期には幕府の京都所司代・伏見奉行が置かれ、中期以降、山城には淀藩(稲葉家)、丹波(東・中5郡)には亀山藩(形原松平家)など5藩、丹後には宮津藩(本荘松平家)など3藩が配置されました。

 

 

遠江浜松藩より松平資昌が7万石で入って、ようやく藩主家は定着することになる。

松平(本荘)氏の家祖・宗資は第5代将軍・綱吉の生母・桂昌院の異母弟ということで大名に取り立てられ、宗資の子資俊より松平姓を許された。

当家は7代続き、うち2人が老中、1人が寺社奉行と幕閣の中枢に進出している。

慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いでは幕府方として戦ったが敗戦し、以後は明治政府に恭順した。

明治4年(1871年)廃藩置県により宮津県となり、豊岡県を経て京都府に編入された。

藩主家の本荘松平氏は明治17年(1884年)、子爵となり華族に列した。

松平〔本荘〕家

譜代 7万石 (1758年 - 1871年)

1. 資昌(すけまさ)     〔従五位下、伊予守〕

2. 資尹(すけただ)     〔従五位下、大隅守〕

3. 資承(すけつぐ)     〔従五位下、伊予守 寺社奉行〕

4. 宗允(むねただ)     〔従五位下、大隅守〕

5. 宗発(むねあきら)〔従四位下、伯耆守・侍従 老中〕

6. 宗秀(むねひで)     〔従四位下、伯耆守・侍従 老中〕

7. 宗武(むねたけ)     〔従五位下、伯耆守〕

【大頂寺本堂・御霊屋】

御霊屋は、宝暦九年(1759)本荘氏が宮津城主として入城のため、客殿内に本荘家霊屋を造り、遠祖桂昌院(徳川家光側室、綱吉生母)の念持仏はじめ歴代位牌を安置したのに始まる。

本荘富之助資昌〔従五位下、伊予守〕

遠州浜松城主豊後守資訓の子で、宝暦2年3月26日(1752)9歳で父を亡い、5月12日遺を継ぎ、宝暦9年6月15日宮津に入城した。 

資昌の父資訓は京都所司代にもなっている。  宝暦11年(1761)資昌はすでに18歳になっていたが、病気がちで、いろいろ加療を試みたが、効果がなかった。こんなことでは公の勤もできないから他人の子をもらって家を譲ろうと考え、公儀へ願い出たところ、父資訓生前の功に報いて嗣子を養うことを許された。

そこで酒井左衛門尉忠奇の四男八郎資尹〔従五位下、大隅守〕をよつぎとし、家督をゆずって資昌は退任した。  

資昌は、宮津に来て所領の詳しい地理、歴史のないのを遺憾とし、小林玄章、天野房成、指田武正等に命じて「宮津府志」の編纂し、宝暦13年12月1日(1763)にでき上がったものが「丹後州宮津府志」である。 

本荘資承従五位下、伊予守 寺社奉行〕は寛政12年8月14日(1800)49歳で死去。 

本荘宗允〔従五位下、大隅守〕が家督を継いだ。 

「宮津事蹟記」には「それから8年後の享和4年(文化元年と改元)までは諸国豊作で、殊の外町方にぎにぎし・・・」と、宮津の繁昌ぶりをうたっている。宮津領でもとくに宮津町附近は、津米といい他領から流れ出した米が船で来たので、山間部よりも食糧事情はよかった。 

宗允は皆川淇園の学を修め「鳥言一篇」を著した。文化13年6月14日(1816)に亡くなる、逝年35歳。 

本荘伯耆守宗発〔従四位下〕

文化5年8月6日(1808)宗允の後を継いで宮津七万石の城主となった。 

文化5年の米相場は、六十八、九匁。同6年は、六十五、六匁、同7年は、六十九匁であった。 

この頃は大体平年作が続き、米価も安定していた。 

文化8年(1811)は豊作で、新米一石が、銀、六十二、三匁。翌9年は春から鰯が豊漁であった。  米は次第に下落して、夏の地米で銀五十八、九匁となり、船米(他領からの輸入米)は銀四十二匁から五十匁内外となった。御家中から売出される米(御払米)は一俵、銀二十匁くらいであった。 

文化10年(1813)の正月は四尺余の大雪であった。新米一石、銀六十五匁。 

文化11年(1814)は寒冷で、米価はこの頃最高の、それでも、七十二、三匁であった。

文化12年(1815)は六十三匁、同13年、14年の2ヵ年は安定し、文政元年(1818)は豊作で五十五、六匁。翌2年も豊作、新米は銀五十匁内外、同3年は四十七、八匁。翌4年は五十匁。 

このように米価は安定していた。 

米価が安定していることは領内が平穏であるべきが文政5年(1822)百姓一揆が起った。  

宮津藩 文政一揆の顛末

文政5(1822)年12月、百姓一揆が起き宮津藩内の数千人に及ぶ農民らが蜂起した。

事の起こりは、宮津藩が領内の7~70歳の男女1人につき1日2文の新税、農民に対し先納米1万5000俵と同量の追加上納米を課税するという方針を示したことに対し、農民らがその撤回を求めた一揆である。

一揆農民の攻撃対象は新税の徴収に動員された大庄屋等を含む庄屋60人と、藩と財政上の協力体制を組んでいた豪商等の富裕層25人の計85人で、農民は12月13日暁方に蜂起し一揆の輪がしだいに広がり、庄屋や豪商宅を次々に打ち壊し、宝物、刀剣、金銀、米等を庭先に積み上げことごとく焼きつくしたという。

騒動はその日に止まず翌14日、15日と続き、群衆は遂に宮津城へ侵入するという噂が流れ、一揆に触発され、加悦谷や遠くは中郡あたりから押し寄せる農民もあり、天橋立の文殊当たりは一揆に参じた群衆で溢れかえり、遂に一揆の群衆は城下町の北端の犬の堂に達した。

犬の堂は城下の喉仏に当たるところで、藩役人と睨み合い触発の事態となったが、農民に手をかけては藩の存在すら否定されかねないという藩側の躊躇もはたらき睨み合ううちに、一揆側は家老栗原理右衛門を交渉相手に名指しで要求。

宮津藩は緊急に評定し、江戸詰の身で帰藩中の家老は高齢等の理由からその息子百助を代理に立てることとし、農民らの要求を聞き入れ万人講及び追加上納米の取り消し等を盛り込んだ5か条の評定結果を百助が読み上げた。

群衆は納得して引き揚げたが、一揆農民は、役得を得て徴税に当たる手はずの庄屋への怒りは収まらず、翌16日、17日も庄屋宅などを打ち壊した。さらに18日は群衆を大手門前に終結させ、万人講等の即時停止を要求するとの噂が流れた。驚いた宮津藩は、過日農民らに対し示した「5か条の約束」を書状にしたため、領内に飛脚を飛ばし各5人組に1枚当て配布してこの騒動は一応、終結を見たのである。

 

問題は一揆農民らに対する強訴の詮議であり農民ら四十余名が拘引された。

そこで様々の事実が鮮明になる、こともあろうに家老栗原理右衛門の母違いの弟で藩士の関川権兵衛が強訴を指導し、同人が加担したというのだ。

理右衛門は藩財政の窮乏を知りその再建に税収の強化が必要なことは職責上知らないはずはなく、同人に領民の強訴に賛意を示す動機を見出し難い。

しかし、理右衛門の弁明は通じず、その息子百助とともに入牢されたが百助は破牢し、江戸詰の主君松平宗発(むねあきら)や重役に無実を訴えるため江戸藩邸に向かう途中、宮津藩の飛地所領・近江八幡(滋賀県)で追手に捕まり自刃、権兵衛は死刑に処せられた。

 

一揆農民らは文政7年4月、石川村奥山の吉田新兵衛死刑(打首)、同為次郎死刑(獄門)、宮津町の御用大工長五郎無期懲役(永牢)、酒屋庄左衛門追放(所払い)等の処分を受け、藩役人側は留守役沢辺丹右衛門蟄居、五組代官古森乙蔵降格等多数の処分が行われた。死刑は藩士関川権兵衛を含め3人であった。

本件共犯の新兵衛は十数人の追手に囲まれ縛につく際、平然と鍋座に座り飯を食う時間を乞い、妻はその一瞬に強訴の連判帳などを焼き捨てたという。

家老栗原理右衛門父子の嫌疑は晴れ、宗発は妻子を江戸に召し、15人扶持を与え住まわせたと伝えられる。

宮津市文殊のはずれに文政一揆の「義士義民追頌碑」がある。

犬の堂  石碑

義士義民追頌碑

本荘宗秀〔従四位下、伯耆守・侍従 老中〕

宗秀は天保11(1840)年、宗発から家督を継ぎ、寺社奉行、大坂城代、京都所司代、老中等幕府要職を歴任しました。

宗秀の時代は異国船渡来騒ぎの中で、宮津藩も海岸防備、お台場築造等慌ただしい時代でした。

晩年は文芸書画を好み、伊勢神宮大宮司になりました。

天保14年(1843)宗秀は宮津に帰り、第一に入牢17年目の栗原理右衛門を牢舎から出し、『余、江戸にありといえども、事の顛末は承知している。長い間苦しめたことをゆるせよ。   聴けば藩中の最長老であるということだ、今日から家老執権を申し付けるから、そばにいて余を輔弼せよ』といって、九十余歳の老体を抜擢して座右に召した。

老人また君恩に感じ、誠忠をつくして藩主を扶け、貧窮のものを賑恤し、災禍に遭遇したものを救い、非違を糺弾し、善行を褒賞し、つねに賞罰を明かにし、公平で治績を挙げたと書き残されている。 

 宗秀は文武に長じ、閣老も勤めた。

慶応2(1866)年、長州再征に副総督として広島へ出張しましたが、捕虜の長州藩家老宍戸備後介らを独断釈放した事件を巡って幕府の嫌疑を受け、副総督、老中を罷免され家督を宗武へ譲りました。

其の他逸事の多い人で、明治6年12月20日(1873)に亡くなった。享年65歳   

宗秀の富士登山

富士宮市の有形文化財の「袖日記」という古記録に宗秀が富士登山を行った記録があり、袖日記によると、宗秀は江戸と宮津を参勤交代で往復しているうちに富士山に登ろうと思い始めたが、参勤交代の道程は幕府に指定されたルートであり、これを逸脱したコースを通ったり、たとえ社寺参詣であっても寄り道することは許されないため、富士に登ることを幕府に願い出るも中々許可が出ず、3年を経て許可を得るも「馬返し」と呼ばれる地点までであった。(馬返しというのは一合目よりも下の場所であり、登山客はここで馬を下りて山に登るという所) そこで宗秀は嘉永6年(1852)6月21日、幕府に内緒で登山を決意し、明け方から出発して山を登り始め、昼過ぎには頂上に着いたという。宗秀の富士山登頂は、近世大名が富士登山を行った唯一の記録となった。

宮津藩の海防

天保15年(弘化元年:1844)異国船が長崎、松前沖に現われた。

嘉永2年(1849)3月20日には宮津領内、長江村沖に異国漁船三隻が漂着した。(縁城寺年代記)

嘉永6年(1853)6月には、米使ペリーが浦賀に来船した。

宮津藩にも江戸から飛脚が来て、相州浦賀にアメリカの軍船が多数渡来した由を知らせた。

  

 国々の防備は一層厳重になり、唐金類の買上げが始まり、しまいには寺院の釣鐘まで上納させて大砲を鋳造した。

その上若者たちは足軽に召し抱えられ、財産のある者は御用金を仰せ付けられ、六〆目玉、三〆目玉の大砲や具足類を江戸へ送るなど藩主も領民も大わらわであった。

9月12日から島崎の御城裏に砲台を築くよう発表があり、家中は勿論、藩主宗秀自ら毎日亀ヶ丘砂山と、大久保古稲荷山の二ヶ所から砂運びをした。 

 「安政3年(1856)9月12日、宮津城外島崎に砲台築造始まり、御殿様、砂御持運びなさる」と「縁城寺年代記」にあり、藩主自ら陣頭に立って指揮をし町方、在方からもお手伝いを致したいと願い出た。

毎日、酒一合づつをふるまわれ、一千人から三千人くらいが翌年の春まで働き、宗秀はそのため参勤交替の日取りを9月まで延期してもらって砂を運び、閏5月大半を完成、八百〆匁の大砲十五門を据え付けることとなり、一門の経費を千両として一万五千両。大砲は角屋清兵衛が製作にかかり8月末に終り、4ヶ月おくれて9月、宗秀は江戸へ出発した。  

宮津藩の海防

「縁城寺年代記」には「安政4年、宮津藩、島崎砲台御築立、4月出来上る」と書かれている。

安政4年10月、宗秀は幕府の寺社奉行に就任した。

島崎砲台の完成した安政4年は雨が降り続いた。大砲製作費として早速、町方に金一万四千両の御用金が申し付けられ、

諸商売は不景気の上、諸国とも不作で新米は一石銀百三匁から百十匁の値段であった。  

 『田井片島、獅子崎、波路浜、犬の堂、天の橋立、江尻、日置妙見山』の七ヶ所に御台場が築かれることとなり、奉行たちは手別けして領内の寺々に釣鐘の献上を依頼し、中には釣鐘の身代わりとして檀家の鐘、カンザシなどまで集めたが、目方が不足したので、代銀(銀納)を願い出たが許されず、寺も檀家も苦しんだ。  

安政4年12月1日(1857)から7日まで、幕府から海岸お改め(海岸調査)の役人十五人、総勢百六十人を従えて来丹し、但馬から出雲方面へ行く途中で、このため領内の村々から人足を一日に一千人、計七千人が徴集された。

本荘宗武(むねたけ)〔従五位下、伯耆守〕

 宗武は家督を継いで間もなく慶応4(1868)年戊辰戦争を迎えました。

山城八幡の警備に当たっていた宮津藩士の中から官軍発砲事件があったと、宗秀・宗武父子は嫌疑をかけられ入京を差し止められたが、あたかも山陰鎮撫使西園寺公望一行の宮津到着の機会に、随行の長州藩士らの陳情もあり嫌疑は解かれ入京も許されることになりました。

 明治4(1869)年版籍奉還して宮津藩知事となり、明治4(1871)年廃藩置県で暫く宮津県知事、明治6(1873)年には北海道農園開拓に従事しましたが、同年宗秀の死去の後宮津へ帰って籠神社宮司になりました。

 天橋義塾の創設維持にも関係し、文芸を好みました。明治26(1893)年、48歳で死去しました。

宮津藩最後の藩主・本荘(松平)

本荘氏六代宗秀、七代宗武の墓地が桜山天満宮の境内にあり、 二基の墓標と旧城内二の丸から移した石橋が残っています。

天橋義塾

旧藩時代は藩校「礼譲館」のあったところで、一時は「文武館」や「文学所」などと改称していたのを、明治五年学制が発布されたのにもとづき、翌明治六年三月から「宮津校」とした。

「天橋義塾」は、宮津校とは関係なく、旧士族の子弟を中心に、明治革命後の自由民権思想がたかまって、小室信介・沢辺正修・粟飯原義光らの青年がたちあがり、自由民権の基本的な教育をさづける道場として、明治八年この宮津小学校々庭の北寄りに、「天橋義塾」を建てて、ひろく地方の向学の青年をあつめ、教育をさづける道場としたのであった。

その後、この「天橋義塾」は発展して多くの青年に、新時代の息吹きをあたえ、ことに小室信介・沢辺正修たちは、板垣退助らの天下の志士とともに東奔西走、明治政府はためにその弾圧を考えるにいたった。

小室信介旧跡
 小室信介は宮津柳縄手のこの場所で嘉永五年(一八五二)七月二十一日に生まれた。宮津藩砲術家小笠原長縄の次男で長道と称した

沢辺正修旧跡
 沢迎正修は宮津柳縄手のこの場所で安政三(一八五六)年一月十日に生まれた。彼の三代前の淡右衛門(号北溟)は藩儒としてひろく名を知られ、藩校礼譲館の興隆に尽した。

本荘(松平)藩時代江戸末期には、この場所の北に郡会所、その向い側に米会所があり、柳蝿手全体に三十五軒の武家屋敷と六ヵ所の武家長屋があった。さして大身の居住地ではなかったが、明治になって宮津天橋義塾を中心とする民権運動の高揚期には、この通りからその指導者・後援者が多く排出した。
大村邸はもと藩医小谷仙庵の住んだところで、仙庵の次男謙次郎は明治十三年ころ帰郷開業、「立憲政党」に加盟した。明治二十年ころ峰山へ移り、そのあとへ、旧藩士大村政智が入居した

1871年の廃藩置県により、山城と丹波東4郡とは京都府、丹後と丹波西3郡とは但馬と合併して豊岡県となりましたが、1876年に豊岡県が廃止され、旧丹後および丹波天田郡が京都府に合併され、現在の府域が確定しました。