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丹後王国

丹後国は古代、大和朝廷から独立した王国だったという説があります。
 

海部氏系図は国宝に指定されている貴重な古文書で、瓊々杵尊(ににぎのみこと)が、高千穂峰に降臨するより早く、近畿地方(大和説と丹波説がある)に降臨したという彦火明命(ひこほあかりのみこと)を祖とする海部氏三十二代の系図で、丹後国庁の公認印が押してある公式文書である。

一之宮籠神社の宮司を世襲する海部(あまべ)氏に伝わる系図が、古代の丹後王国の存在を物語っている。


彦火明命は古事記には瓊々杵尊の兄神として登場する。とすると、この命も天照大神の孫ということになり、しかも、この丹後の地に降臨して国を作ったと言うからには、大和朝廷と同格の王国であった。

彦火明命は、また、別名を饒速日命(にぎはやひのみこと)といい、物部氏や尾張氏の祖と言われている。このために物部系の王国が先に丹波や大和に勢力を築き、それを天皇家が侵略したか、連合したかして大和朝廷が成立したという説が、かなり有力になってきている。

続日本紀によると、丹後国は和銅5年(712)4月、丹波国から加佐、与謝、中、竹野、熊野の5郡を割いて設立された。

元伊勢籠神社

「元伊勢」とは、天照大神が宮中を出られてから伊勢の五十鈴川の河上に御鎮座されるまで皇女が天照大神の籠もられた御神鏡をお持ちになって各地を御巡幸になり、一時的に天照大神をお祀りした二十数カ所の宮々のことを云います。

また、それとは別に雄略天皇の御代に天照大神のお告げによって丹波国(現在の丹後)の与佐(よさ)の小見(おみ)の比沼(ひぬ)の魚井原(まないはら)にいる丹波道主(たにわのみちぬし)の娘・八乎止女(やおとめ)のお祀りする豊受大神が天照大神の食事を司る神として伊勢に迎えられました。

この丹波の魚井原で豊受大神をお祀りしていたお宮のことも「元伊勢」と云います。 

 

「海部家は豊受大神を祀った彦火明命の血脈であり、丹波道主の子孫にも当たり、また海部家の直系の女性が「八乎止女」を襲名し、豊受大神をお祀りしていたことが伝えられています。」つまり、雄略天皇の御代、「丹波国の丹波道主の娘の八乎止女が祀っていた豊受大神」とは、奥宮真名井神社(古称 吉佐宮)の豊受大神であり、「元伊勢」としての由緒が明らかとなっています。

 他にも「元伊勢」伝承を有する神社はありますが、天照大神・豊受大神をその血脈の子孫が宮司家となって一緒にお祀りしたのは籠神社だけで、特別の「元伊勢」として崇敬され続けています。

この他にも、伊勢神宮と元伊勢籠神社にしか許されない「五色の座玉」があることも特別です。

伊勢神宮は三重県伊勢市にあるが、最初か二番目に伊勢神宮が建設されたのは、京都府宮津市の籠神社である。よって籠神社は元伊勢と呼ばれる。その後、20以上の地を転々とし、現在の伊勢市に伊勢神宮が存在する。

籠目紋とは六芒星の事である。

【元伊勢瀧神社】

宮津市には縄文時代から古墳時代にかけての遺跡が点在し当時から人々の生活が確認されています。

丹後国に存在した網野銚子山古墳・神明山古墳・蛭子山古墳といった巨大古墳は確認されていませんが平城京跡から発見された木簡や承平年間(931~38)に編纂された「和名類聚抄」に宮津の地名が記されています。

7世紀は丹波国に属していましたが和銅6年(713)に丹後国が独立し、一之宮の籠神社や丹後国分寺跡が宮津市府中にあることから一般的には与謝郡に国府があったと推定されています。

中世に入ると一色氏が守護として支配し守護所は宮津市府中に設け長く丹後国の政治、文化、軍事の中心地として重要な地位にありました。

【眞名井神社】

社伝によれば 創祀は神代に遡り、籠神社の主祭神である彦火明命(ホアカリ)が豊受大神の籠った神鏡を持って丹後の地に天降り、丹後・丹波地方を開拓して豊受大神を祀ったことに始まるとされています。一方、その弟に当たる邇邇芸命(ニニギ)は、天照大神の籠った神鏡を持って、日向の高千穂に天降ったとされます。

いわゆる天孫降臨は二つあり、兄・ホアカリは丹後へ、弟・ニニギは高千穂へ天降ったということで、古伝の『先代旧事本紀』にも同様の記述があり、彦火明命(ホアカリ)は天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(ニギハヤヒ)という神名でも記されています。
それ以後、匏宮(よさのみや)と呼ばれて 現在の真名井神社のある地に鎮座し、第4代懿徳天皇の時代(BC.507年)には「藤祭」という祭礼が始まったとされています。そして、第10代崇神天皇の時代(BC.59年)に豊鋤入姫命(トヨスキイリヒメ)によって天照大神が4年間祀られたとされています。

その後、第21代雄略天皇の時代(AD.478年)、天皇が天照大神の神託を受けて豊受大神が外宮に遷宮され、第29代欽明天皇の時代(AD.539~571)に「藤祭」を「葵祭」と改め、第40代天武天皇の時代(飛鳥時代)に宮名を「真名井社」に改名したとされています。
そして、第44代元正天皇の時代(AD.719年)に籠神社が籠宮として現在地に遷宮されたため、現在は籠神社の摂社とされています。しかし、籠神社に至るまでの歴史が古く、信仰も丹後に根付いているため、籠神社を凌ぐ聖域として参拝者が絶えないと云われています。

【丹後国分寺跡】

丹後国分寺跡丹後国分寺は天平13年(741)、聖武天皇の勅願により各国に一寺設けられ国分寺の1つです。

その後、衰退し鎌倉時代後期から南北朝時代にかけてに5間4方の金堂と5重塔が再建、雪舟が描いた「天橋立図」などにも5重塔が見られましたが天文11年(1543)の兵火や江戸時代の天災などで荒廃します。

丹後国分寺跡

天平13年(741)に聖武天皇の詔によって全国に建てられた国分寺の一つで、建武元年(1334)に円源房宣基により再建され、「天橋立図」には五重塔と金堂、中門や塀、堂舎が描かれている。

天橋立を見下ろすこの地は、まさに詔どおりといえる。

南北朝時代の『丹後国分寺再興縁起』によれば鎌倉時代後期には衰退し、本尊の薬師如来像までが盗難にあう有様で、宣基上人は奈良・律宗西大寺派の支援を受けて伽藍を再興、造園には大坂・四天王寺大工と地元・府中大工が参加した。

後醍醐天皇の勅使が参列し金堂供養が営まれた。丹後・大和の僧侶も一堂に会して華やかな舞楽に彩られた盛大なもので、天文11年の兵乱(1542)で焼失(国分寺略縁起)、現在は礎石を残すだけとなっています。

創建当初の国分寺の姿は見ることは出来ませんが、その後の塔や、金堂、中門の礎石(塔:16個・金堂:34個・中門:2個)や土檀の跡が見られます。現在は約1万2千㎡が整備され国指定史跡に指定されています。

史跡丹後国分寺跡(金堂跡)
史跡丹後国分寺跡(塔跡)
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