宮津へようこそ
猪ノ岡八幡・八幡城跡
丹後国でも最大級の山城で、山頂の主郭から北西側に伸びる三本の尾根に段々と曲輪を連ねている。
山頂の主郭部のみ石垣が使われ、露出している隅部は算木積で、虎口は北にあり石段を登った所に2m四方程の空間がある。
主郭から南へ伸びた尾根には切通のような堀切があり、主郭の北端部には近年設けられた天橋立を望む展望台になっている、この北西下の曲輪の北側に城内で唯一という連続竪堀が残っている。
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八幡山城跡
八幡山城の郭は八幡社の裏からはじまり、標高一六五メートルの頂上本丸まで、稜線に沿って十ヵ処ほどが並び、稜線の南側の通路がそれを結んでいる。稜線から更に分脈状の尾根がのび、そこにもいくつかの郭がみられ水の手は本丸西南方小字水船のあたりで、付近には馬場・的場・矢場等の小字名が残り、大字猟師もこの付近に散在し、この城が北西の大久保山城と並んで海に備えた城であったことを思わせる。
八幡山城の築造の時代・城主は詳らかでないが『丹州三家物語』の記す如く丹後国守一色五郎の居城であったかもしれない。然し丹後国には一色氏の意向とは別に、新興信長勢力に従わない連中がいたらしいのであるが、この城はそういう部将の居城であったかもしれない。
丹後平定を終えた織田信長は丹後国を細川藤孝・忠興父子に与え、父子は天正八年八月宮津八幡山城に入った。藤孝は改めて宮津浜手に新城を築きたいと考えて信長の許可を求め、信長の返書は八月二十一日付で届き、細川氏は浜の新城と城下整備も進めた。
八幡山城は中世宮津の終焉の地であり、近世宮津の出発の地でもある。
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猪岡山砦址
猪岡山は八幡山ともいい、宮津の入口を扼する要害の地で、一色氏は普甲寺、小倉城、猪岡山と丹後を守るために防備を固めていた。一色義道はここに義俊を配し、高屋駿河守(網野下岡城主)を附けて守らせ、一色氏は八田の建部山を本城とし、宮津猪岡山に血縁をおいて重臣小倉氏をつけ、加悦谷石川城に血縁をおいて重臣石河氏をつけ、峰山吉原城に血縁をおいて松田越中守をつけ、府中の館に延永氏をおいて守護代として丹後八五か城を支配し、自身は室町幕府に常駐して足利将軍を援けたが、若狭武田氏の侵攻にあうや、度々馳せ帰って自ら兵を指揮して防戦している。室町幕府が倒れた後は建部山へ帰り、細川氏の侵攻を防戦している。
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石祠のある所が土塁
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主郭の北端にある展望台より