宮津と一色家とのつながり

一色満範(修理太夫、道範、慈光寺殿)

満範は、丹後の守護となると、吉原山城には家臣の近藤・遠藤の両将を置き奥丹後の支配を代理させ、自分はただちに八田の館に帰った。

一色家は相伴衆で毎年正月、将軍が椀飯(わんぱん)の大饗という儀式を行う時その式に参列することのできる家柄であり、義満が室町に幕府を開いてからも、斯波、畠山、細川の三管領に次ぐ重い格式で、赤松、山名、京極、六角、下細川と並んで九家の一つであった。

また幕府の侍所(さむらいどころ)の所司(長官)をつとめたのは、赤松、山名、京極、一色の四氏で、これを四職といい幕府ではもっとも重要な役目であった。  

満範は八田にかえると、父祖2代で築いた建部山城によって丹後を固める足場とした。

また、父一色詮範は所領の若狭の今富には行かず、和泉式部が祈願をこめたという吉原山頂の山祇社(やまずみのやしろ)の境内(人呼びの嶺=中郡峰山町)を本丸と定め、本格的な築城を始め北の守りを固めた。 

明徳4年5月(1393)将軍義満が文珠堂に参詣した。

一色満範は文殊の竜穴(りゅうげつ)の山上に小さな亭舎(休憩所)をつくり、京都から将軍をお伴をしてこの亭舎に案内し、将軍はそこから見おろす天橋立と与謝の海の絶景に感激し、この亭舎に「玄妙」の名を贈った。

これが玄妙亭の起源で将軍は上機嫌で、丹後と若狭の一色領を巡視して京都へ帰った。

この頃が丹後一色家の全盛時代であったかもしれない。

応永13年(1406)詮範没し、間もなく三河の一色領をあずかっていた小笠原明鎮(みょうちん)父子が叛いたので、

満範は二人を京都の邸につれかえり、さらに与謝郡石川山城(野田川町)におしこめた。

翌年年号が応永と改まり、足利義勝(義持)が4代将軍となり、応永2年9月(1395)将軍義勝が文珠堂に参詣した。

一色満範は将軍を「玄妙亭」に迎え、再び将軍を案内して丹後、若狭を巡回した。

応永4年(1397)、足利義満が京都北山に金閣寺を建てた。

応永9年5月(1402)将軍義勝と義満が一緒に文珠堂に参詣し、満範は父詮範夫妻とともに将軍の案内をして大変喜ばれた。

一色義範(兵部少輔、義貫、安養寺殿)

応永6年(1399)正月、父満範が亡くなると、兄の持範は吉原城にこもって、八田(舞鶴市)にいる弟の義範と父の遺領を争い、丹後の諸将や領民はどちらに付けばいいか迷った。

その3月、義範は、石川山城にとじこめていた三河の陣代小笠原父子に切腹を命じ、応永18年(1411)に兄持範は京都の北野に第(邸宅)をつくり住み名を義清と改めた、これを北野一色といった。

弟義範もこの年、幕府の侍所の別当(長官)となって八田から室町の邸に移り、名を義貫と改め。

兄持範が三河・伊勢の守護となり丹後を義範が領したとも、また丹後・三河・若狭を二人で分けとも、或は丹後の東半分を義範がとり八田に陣代(代理)を置き、持範が相変わらず吉原山城に近藤、遠藤の二臣を陣代にとどめて奥三郡(中、竹野、熊野郡)を支配させたとも伝えられている。

 

永享10年(1438)7月一色義範(義貫)は幕府の命により大和の三河の大僧正義昭を討伐したが、永享12年(1440)5月、幕府にそむいたため大和の陣で武田大膳太夫信賢に討たれた。

武田信賢は余勢に乗じて、若狭の一色領を奪い更に丹後に攻め入ったが、吉原城にいた持範の子八郎持長は、陣代の近藤、遠藤を激励して防戦し、八田に立てこもっていた義範の家臣、領民が持長の指図に従って戦い、武田勢は丹後に入ることを得ずして退却した。  

嘉吉3年(1443)丹後は大水にみまわれ、これを「嘉吉の洪水」といい各所で大きな被害が出て、一帯は泥水に没する惨状で、時の守護一色義範は農民の難儀をみかね、丹後の一国の年貢を免じて領民を救ったといわれるが、義範は3年前に、討伐に向った武田信賢に大和で討死されているので、義範のおこなったことでなく、吉原山城にいた一色持長の計らいであったかも知れない。

義範の弟持範の子教親が丹後の守護になったのは文安2年(1445)で八代将軍義成(義政)の時で、将軍義政はその功にむくいるため、兄義範の謀反の罪にもかかわらず、持信の子教親に丹後の所領安堵と特別のはからいで、教信は文安4年(1447)に侍所の長官になったが、2年後の宝徳元年(1449)に世を去り、同2年正月、義範反逆の罪は時とともに忘れられて、義範(義貫)の子義直に丹後の国十万三千四百余石が与えられた。

一色義直(左京太夫、修理太夫)

宝徳2年(1450)正月、一色義直が丹後の守護となり、八田にその府(役所)を設けたが、ほとんど京都室町の邸に住んでいた。

「丹後十万三千四百余石、御相伴衆一色左京太夫義直朝臣、宮津・・・・・・とあるも、いかが。」

これは「応仁武艦」をもとにした「田辺日記」の記録で、義直の代官が宮津の館に駐屯して与謝郡一帯を支配していたものであろう。

吉原山城(中郡峰山町)には義直の弟義遠が、従兄の一色八郎持長の後を継いで吉原四郎義清と名のり、奥丹三郡を治めていた。

一色義有(左京太夫、義季、松丸)、義信(吉原越前守)、義春(宮津、八郎持長の子)

文亀元年3月(1501)武田元信の軍勢を丹後から撃退した吉原四郎義清(一色義遠)は、丹後在住の重臣たちと相談の上、三河の国に止まっていた長男義有を呼びもどし、本家を継がせて与謝郡の府中一の宮(宮津市)の近くに館をつくり、重臣の延永修理進(のべながしゅりのしん)を陣代として丹後を支配させ、父義遠はその8月、吉原城から石川城に移って後見人となった。  

竹野郡の成願寺(丹後町)の出城にいた義有の弟義信は、父義遠(吉原四郎義清)が石川城に移ったので、成願寺の出城には家臣をとどめておいて、吉原山城に帰り吉原越前守義信と名のった。 

永正3年3月(1506)丹後の守護武田元信が細川澄元の支援を得てまた加佐郡に攻めてきた。 

一色八郎持長の子義春がこれを防いだが支えきれず、武田勢はその7月大川(由良川)を渡り、普甲峠を越え8月に、宮津になだれ込み、如願寺で丹後の兵と戦い寺を焼き払い府中に渡り、一色義有の本城阿弥陀ヶ峰を見下す成相寺に陣をしいた。

如願寺

創建は万寿元年(1024)、皇慶上人(比叡山延暦寺の僧)が開いたのが始まりで、丹後守護職一色氏の家臣小倉氏から庇護され寺運が隆盛しましたが、兵火により30余りあった堂宇が尽く焼失したことで衰微します。

京都室町にいた一色義有は急をきいて、小西石見(いわみ)守を丹後に送り、丹後に下った小西石見守は、石川城の義遠、宮津の義春、吉原山城の義信と共に、府中陣代延永修理進を助けて成相寺の武田勢を包囲した。 

驚いた武田元信は、4年4月に使いを細川政元へ援軍を求めたので、政元・澄元父子は小笠原朝経入道(沢蔵軒(たくぞうけん))を将として大軍を送った。  

小笠原は奥郡(中、竹野、熊野郡)との連絡をたつために、山田、加悦方面の攻略に向い、同年5月には山田城の下山将監、加悦城の石河直経(なおつね)ら一色方の諸将との間に和睦が見え始めてきたが、その6月に細川政元が逆臣、葛西(かつさい)のために嵯峨で殺され形勢が逆転した。 

京都室町にいた一色義有は、好機逸せずと丹後に帰ると味方の陣頭に立って成相寺に迫り、寺に火を放って夜襲した。 

武田勢はたちまち総崩れとなり、大将武田元信は命からがら日置の浜(宮津市)から小舟で逃げ去り、退路を断たれた小笠原朝経は、文殊堂内の無相堂にかけ入り割腹し、腸(はらわた)を天井に投げつけて亡くなり、一族郎党八十二人も後を追った。

 

成相寺の焼討ちは、再建するとの約束であったので、その後一色氏の手によって建築復旧されたものであるといわれる。 

翌永正5年、丹後では一色義春が病死した。

永正11年8月(1514)但馬の山名祐豊(すけとよ)が熊野郡久美浜に不意に乱入し、その機に乗じ若州の武田元信がまた普甲峠を越えて宮津に攻め込んで来た。

吉原山城の越前守義信は熊野郡の氏家勢に下知して、9月8日、山名を撃退し兄一色義有は、上宮津の小倉、加悦の石川、和田の諸将を指揮して武田勢をむかえたので、武田方はなすすべもなく退却した。 

 

それから間もなく一色義有は世を去り、義幸(よしゆき)が後を継いだがその年月日は明らかではない。 

永正14年8月(1517)石川城の一色義遠は、災厄の因(もと)を断つためにと若狭の武田元信を襲ったが、朝倉孝景に邪魔をされて目的を果すことができなかった。 

大永元年12月(1521)丹後の守護武田元信が病死し、子元光が職を継ぎ室町幕府では、将軍義晴が十二代将軍となった。

一色義幸

後奈良天皇の大永7年(1527)丹後の守護武田元光が丹後の海賊を加佐郡で破ったと伝えられている。

海賊とは、一色が途中妨害をさけるために海上から若狭に攻め入ろうとしたものではないか、一色義幸の軍が若狭の国小浜の西津浜を襲ったが元光に撃退され、加佐郡で敗れたといわれている。  

天文15年(1546)足利義輝が十三代将軍となった。 

翌16年若狭の武田元光の軍が丹後に攻めてきた、一色義幸これを下宮津に迎え討ち、一色方奮戦してついに武田勢を追い返した。普甲寺はこの時の兵火にかかって焼失した。 

翌17年、武田元光再び丹後に攻め寄せてきたが追い返された。 

 

天文20年7月(1551)丹後守元光が病死し、伊豆守信豊が丹後の守護職を継いだ。 

天文24年(弘治元年1555)武田信豊が病死して、その子大膳太夫義純が丹後の守護となったが、一色氏の丹後の地盤は依然としてゆるがなかった。

一色義道(義通、式部太夫、左京太夫)

-其の壱- 

正親町(おおぎまち)天皇の永禄元年4月(1558)一色義幸が隠居して、その子式部太夫義道が後を継いだ。

義道の弟義清は吉原越前守義信の後を受けて吉原山城により、吉原越前守義清と名のって奥丹後三郡を指揮した。

いい家臣をもち、その家臣のため三郡の城主、領民は義清を信頼した。 

永禄3年(1560)織田信長が今川義元を桶狭間(おけはざま)の戦で破り、その名は一躍有名になった。 

永禄8年(1565)将軍義輝が、元細川の重臣三好長縁と松永久秀に殺され三好・松永の二人は後難をさけて、義輝の弟にあたる鹿苑寺(ろくえんじ:金閣寺)の周嵩(しゅうこう)を討ち、更に奈良(南都)の一乗寺門跡になっていた覚慶(かくけい)を寺内に押し込めた。 

 

そこで、細川家の一族である兵部太夫藤孝は覚慶を救い出して近江の国に移し、還俗させて足利義昭と名のらせ美濃の織田信長に義昭を託した。 

永禄11年2月(1568)都では足利義栄(よしひで)が三好・松永らにおされて十四代将軍となったが、美濃と近江を征服した信長は、足利義昭を奉じて都に入り、同年9月義昭を15代将軍の位につかせた。 

翌永禄12年、信長は宣教師バードレンと近江の安土で会見し、京都で『切支丹宗』を布教することを許可した。

細川藤孝は、織田信長に会ってから、信長の人物にすっかりほれこんでしまった。 

しかし、将軍義昭は、信長の人望を恐れ、また藤孝の恩を忘れ信長を討とうと密かに考えていた、藤孝はこの計画を察して、いさめたが義昭は聞き入ることはなかった。 

元亀元年(1570)織田信長は、越前の朝倉義景と浅井長政の連合軍を姉川に破り、これに味方した比叡山を焼き払い、僧を殺した。

漸く難をまぬがれた比叡山の僧の一部はのがれて丹後へ来た者もあったが、かくまった普甲寺は再び焼失し、丹後に逃げて来た比叡山の僧に追い討ちをかけたのは信長の武将明智光秀の軍であったと伝えられているが、この事件に関し丹後の一色氏がどのような立場をとったということは不明である。

普甲寺は宮津市字小田の普甲峠より1.5キロばかり南東にある平安時代創建と伝える大寺院である。今は弁天堂と普賢堂が建ち、普賢堂の前には仁王門の礎石が残るのみである。

-其の弐- 

翌元亀4年、天正元年と改元、将軍義昭は武田信玄を誘い、信長を挟撃しようとしたが失敗し一度は赦されたが、再び反抗したので将軍義昭は捕えられ、河内の国に押し込められ将軍に味方した細川藤孝の兄三渕大和守藤英らは斬られた。 

将軍家を相手とすることは信長にとって相当苦しい戦いであり、賊軍の名をさけるためには大義名分が必要であった。

この計画を仕上げたのはすべて細川藤孝で、藤孝は抜群の功により、その7月14日山城の国の桂川の西、長岡を与えられ、姓を長岡と改め天正3年9月、丹波の国の船井、桑田両郡を追加された。 

 

足利の一族である一色義道は、藤孝のような世渡りは良心が許さなかったものか、天正3年(1575)信長から丹後の守護に任じられながら意思の疎通を欠くものがあった。しかし一説には「一色義道は悪政にして国人順わず」とも伝えられている。  

比叡山の僧や、足利の残党が逃げてきたのは、信長と義道の対立的な関係を察していたのがその理由であったのかも知れない。

義道もこれをかばって丹後八十五ヶ城に配して国の守りを固めた。 

信長は反省を促したが、義道は聞き入れず丹後にひそんでいる比叡山の僧は密かに信長誅滅の祈祷まで行っていると、うわさもひろがっていた。 

天正4年9月(1576)信長は新しく出来上がった安土の城に移り中国征伐の策を練っていたが、丹波・丹後から目をはなすことができなかった。

同5年10月、信長は明智光秀と細川藤孝を呼びこの気持をつたえ、「二人が協力して丹波を討ち、続いて丹後を平定したら、丹波を光秀に丹後を藤孝に与えると約束した」。

そこで細川藤孝は、天正6年4月(1578)長岡、船井、桑田の勢を集め、その子忠興、興元とともに宮津に攻めいった。 

不意打ちを食った一色方の武将上宮津の小倉播磨守と下宮津の野村将監は討死し、細川方は上宮津猪の岡山(宮津市,宮村八幡)に本陣を置いたが、一色義道は、八田、栗田等の兵をひきいて北上し、須津、弓木など近在の諸将が南下して猪の岡山の細川軍を包囲し不利と見た、細川と明智は丹波の園部に引きあげた。

-其の参-

天正6年(1578)織田信長の勧めで細川忠興と、明智光秀の娘玉子が結婚している。 

翌天正7年3月、明智光秀は、細川の援けによって丹波を攻め、亀山(亀岡市)に居城した。

その5月、光秀の手兵三百を援軍とする三千余の細川軍は、前年の丹後攻撃の失敗に鑑み、今度は真正面から一色義道の本城、加佐郡八田に押し寄せ、両軍の間に激しい攻防戦が展開された。 

この戦は初めから一色氏に不利であった。  

「義理無道にして国人順わず」義道の人望はうすらいでいたのに反し、細川の背後には織田信長という勢力があった。

丹後八十五ヶ国の城主の中には、室町幕府を倒し着々と中国平定の歩を進めて行く信長に対する恐れと尊敬の念があった。 

細川方は丹後の攻略が容易でないことを知っているので、明智光秀は信長の命令であるとの口実で、日置城主(宮津市)松井四郎右衛門康之(佐渡守)を味方にするため細川藤孝の女婿とした、同じ策で算所(加悦町)の安良城主有吉将監父子を味方にした。 

 

丹後の事情に明るい松井・有吉の作戦が功を奏して、一色義道・義俊父子は建部山城を支え切ることができず、天正7年9月、城を捨ててひとまず奥郡にと考え、部将をまとめて大雲川(由良川)を下って中山城(舞鶴市東雲附近)に退却した。

城主は沼田幸兵衛後に勘解由(かげゆ))

沼田は早くから細川に心をよせていたので、早速細川方の謀将松井・有吉に内通し、細川忠興、興元兄弟を将とする松井、有吉等の合計一万四千七百余人の軍勢が二手に分かれて攻め寄せて来た。

-其の四-

沼田は、義道に腹を切らせ、その首を土産に細川方につこうとあせっていた。 

 

一色方の武将、大江越中守・高屋駿河守・近藤兵庫・原紀伊守・金屋伊豆守・山口弾正・荒川帯刀・赤井五郎左衛門・木村長門守・氏家大和守・杉山出羽守・垣見筑後守・白杉主税介・横田伝太夫らは足利の残党で、戦場に馴れた勇将で、よく部下を指揮して持場を守った。 

一万騎を超える細川・明智の大軍も、中山城をもてあまし、攻撃に3ヶ月をついやしたが攻め落とすことが出来ず、そこで松井佐渡守は城内に密使をおくり、沼田幸兵衛の持場に火をつけさせ混乱に乗じて夜襲した。 

一色義道は、一旦城から切り抜け川原に逃げたが、到底再起の見込みがないと思ったのか秋草のかげで自害し、この合戦で主従三十八騎が討死している。 

この時、義道の子義俊は、よりすぐった百人余の若武者と大船山(舞鶴市、四所)の峠にかくれていた。

機を見て細川軍の後方から襲う計画で、   義俊は父の自害を知ると口惜しがった。

「いいかひ(甲斐)なき父の有様なるかな、たとい沼田の悪心にて落城に及びぬとも一方を切抜け奥郡へ引取る事はなかりなんをやみやみ切腹に及ばれける残念さよ。」父の無駄死に憤激した義俊は、精兵を引きつれ、大船山の峠からかけ下りると、そのまま細川勢に突入した。

その時、細川勢の正面から「若殿を討たすな」と大江越中守をはじめ、一色の諸将が一団となって打って出たので、細川勢もさんざんにうち破られて八田をさして引退いた。 

細川勢を打ち破った義俊は、討ち取った敵の首百九十余りを槍に結び大雲川(由良川)を渡って与謝郡に入り、弓木の稲富伊賀守の城に立てこもった。 

忠興兄弟も、義俊らの見事な引き揚げぶりに感心し、追討をかけずに見送った。 

しかし、この一戦で宮津から南は完全に細川の手に落ち、そして10月、細川藤孝、忠興父子は安土城に織田信長を訪れ、この戦果を報告した。  

弓木の城

義俊の立てこもった弓木城は、猫の額ほどの狭い小城で、大軍をもって一挙に攻め落とすことはできず、無理をすると却って味方の犠牲を多くすることは明らかで、そのことは、細川も明智もよく承知していた。 

そこで藤孝は光秀のはかりごとに従い松井有吉を使者として、自分の娘を義俊の嫁にやり和睦し、細川と一色とで丹後の国を治めようと約束した。 

義俊と結婚した藤孝の娘は名をイヤまたは菊の方といい、忠興、興元の妹であった。 

 

 丹後の平和は長くは続かなかった。

細川が娘を義俊に嫁がせたのは政略のためで、一色方としても細川・明智は勿論、その背後にある織田信長に屈することをいさぎよしとは思っていなかった。

信長は足利の天下を奪った張本人で、細川、明智はその手先であるという憎しみが一色氏にはあった。 

こうした中にあって結婚以来一度も、細川方に顔を出していない義俊の態度は、細川方には最もよい口実を与えた。

こうして一色義俊の謀殺は密かに進められていった。  

 

一色氏の菩提寺であると伝えられている上宮津盛林寺には「一色満信(義俊)9月8日」という位牌が祀ってある。