細川家と一色義俊の謀殺

一色義俊の謀殺  (2月22日説)その壱

 天正9年5月(1581)細川藤孝の娘菊の方が、弓木城の一色五郎義俊にとついでその翌年天正10年正月10日(1582)に、藤孝の使者として、家臣の米田与七郎が藤孝の孫忠隆(忠興の子)のお伴をして弓木城に訪れた。 

米田は、年賀の挨拶を終えると「主人の申しますには、歳の故か、この頃は寒さが殊の外身にしみるようになった。

こんなことでは行く末が心元ない。老いの身のただ一つの願いは是非とも田辺へお迎えして、親子の杯を交わし、倅の忠興、興元と兄弟の交わりを結び、年寄りを安心させていただきたい・・・」と藤孝の意を伝えた。

使者を待たせておいて奥へ入った義俊は、早速謀将の大江・杉山の両人を呼んで相談し、相手の意中を測りかねた大江越中守は婿入りに反対したが、杉山出羽守は自滅の途をたどるより「この機会に藤孝父子に近づき、二人を討ち取るべきと主張」義俊も杉山の説に従い、吉日をえらんで登城する旨を答え忠隆主従をもてなした。 

 

正月23日、弓木城から諸城に回状が飛んだ、急を知って与謝・奥丹後から駆けつけた諸将九十騎。

弓木に分宿して、武器や兵具の準備にかかり、加佐・与謝・中・竹野・熊野の各郡から八十六人の諸将が弓木城に集ったが、その中には岩滝城主千賀常陸守、男山城主高岡出羽守もいた。

 

この噂をきいた細川藤孝は、上杉・村上の両名を弓木城におくり「老人こと、近頃とみに余寒の病みがつのり、お客ごともできかねる有様、こちらから日取をお知らせするまで、婿入りはおのばし下さるよう・・・」と申し入れた。

これを聞いた一色方は、秘密のもれたことを知って当惑し、やって来た二人の使者は城内はもとより城下、弓木村の様子も見抜いたにちがいない、こうした手違いが一同に動揺をもたらした。

中には細川方の思惑を察し、持城に引きあげるものもおり、不安の色が深まっている折に、明智・細川・一色三氏に宛てた将軍信長の招集状が細川の手を経て届けられた。  

一色義俊の謀殺  (2月22日説)その弐

  

明智・細川・一色の三家は、今もって不和のよし上聞に達したよって三人の者、連れ立って至急出向け。もし背く者あらば、大軍を差し向けて討ち滅すであろう。 

義俊は、考える余地のないことをさとり、上京すればまだ一度も婿入りしない自分の非を口実に切腹を命じるにちがいない、上京してもしなくとも結果は同じことである。

そこで、信長の招きを幸い、田辺に乗り込んで細川親子に近づき、亡父義道の恨みを晴した上で切腹し、一色の最後を飾るのが残されたただ一つの道であると考えた。 

 この義俊の思いに、大江・杉山の諸将は、「もし我が君に一大事あれば、三郡の諸将はいよいよ心を一にし、吉原越前守を大将に迎えて討手を引きうけ、潔く討死して名を後の世に残しましょう」義俊は涙を流して喜び、早速、田辺の細川に使者を送った。 

「都からの回状のおもむき承知しました。明22日、田辺まで出向きますから同道の御用意下さい」翌22日午前6時、諸将と袂別した義俊は、石川左衛門秀門・金谷半左衛門・一色宗衛門範国のほか、若手の中から百五十余人を選りすぐり、岩滝の浜から乗船した。  

二番手は荒須帯刀(中郡大宮町周枳)の率いる二百七十余人、三番手は高屋駿河守父子(竹野郡、網野町下岡)、

松田摂津守(竹野郡、弥栄町黒部)を将とする四百余人が、夜に入って兵船を漕ぎ出す手はずであった。 

義俊主従は、途中で佐方吉衛門・麻野吉衛門らの出迎えを受け、夕暮近く田辺城の本丸に到達し、佐方の案内で風呂を浴び、膳をすすめられたので、藤孝父子に会って上洛の打合せをするいとまもなく、不気味な中に夜が更けていった。  

別室では、お供の若侍らがすっかり気を許して興じていた。石川・金谷はこれをみとがめ「いくらおめでたいとはいえ大切な供先で大酒を呑むとは何事だ。もっと慎しみなされよ」とたしなめた。

これを物陰で聞いていた藤孝父子は麻野に寝床の用意をさせ、沼田勘解由(幸兵衛)に寝酒の支度を申しつけた。 

 

沼田は早速、盃を用意して座敷へ出たが、これを見た石川・金屋の二人は口をそろえて、中山城以来の不忠不義をののしり、「沼田幸兵衛、義俊殿の御目通り御叶い申さず」

しかし、沼田は皮肉に笑い返し「主君に腹を切らせたこの不忠者があればこそ、将軍信長公のお憎しみにもかかわらず、細川家と和睦が叶い、婿となって丹後を両家で治められたものを、足利の残党をかくまい、細川家にたてついて将軍家のご機嫌を損じたのは、みなお前共忠義顔(ちゅうぎがお)の指図であろう。こちらこそ口惜しいぞッ」といい終らず抜打ちに石川の右肩を斬った。石川は深手ながら抜き合せたが、遂に沼田の二の太刀に切り伏せられた。 

 

「義俊殿の御一大事ぞ、お側にまいらせよ」

 一色宗左衛門と金谷の悲痛な叫びに、酔いつぶれていた若侍どもは刀をとって立ち上ったが、役に立たない中に部屋の明りが一度に消された。そのなか黒覆面の三人の武士が、手槍をしごいて義俊に迫り、金谷・芦屋・金沢ら主従四人を突き伏せてしまった。

この三人こそ細川忠興、興元、有吉将監であった。 

死斗の末危うく切り抜けた一色方の若侍十五、六人が由良川の裾までたどりついた時、由良の河口近く兵船をとどめ、山々に遠見の者を出して、田辺城からの合図を待ちわびていたのは荒須帯刀の二番隊であった。

若侍からことの起こりを聞いた荒須らは、無念の涙を押えて、ひとまず弓木城に引返した。 

やがて夜明も近い頃、弓木城でこの悲報を聞いた陣将大江・杉山らが籠城について語り合っているところへ、思いがけなく一色宗左衛門がたどりついた。

しかも重傷に屈せず、主君義俊の首を絹の袖に包んで背負い、敵の首二、三十ばかりを家来に持たせ、血刀を杖にかけこんで来た彼の姿に、一同思わず息を呑んだ。

「浅手ながら数ヶ所の傷です。まず、御免」  宗左衛門はその場に横たわると、細川方に寝返った沼田幸兵衛のたくらみなど闇打の模様を詳しく語り、更に「その上、興元、松井、有吉の三手の水軍が出陣した。経ヶ岬を回る船の灯はたしかにそうだ。弓木城に寄せるのではなく、まず竹野、熊野の浦々に攻めかかり加勢を出して、この城が手薄になるのを見すまし、正面から忠興の本隊をさし向ける計略だ。さあ、皆の方最後のお覚悟を・・・・・・」 生死の瀬戸際に立ちながら、この行き届いた報告に感激した大江、杉山の両将は、主君の首を敵に渡さなかった功績をほめたたえ、一時も早く休息と、傷の手当をするよう彼をねぎらった。 

こうして陣将大江、杉山連名の「触状(ふれじょう)」が奥三郡に飛んだ。

一色義俊の謀殺  (9月8日説)その壱

 

織田信長が、明智光秀のために本能寺に倒れたのは天正10年6月2日(1582)である。 

光秀は早速細川に使者を送り、摂津一国を与えるといって誘ったが、藤孝父子は返事もせず、藤孝は髪を剃って玄旨(げんしゅ)法印幽斉と名を改め、亡き信長に対し二心なきことを誓い、忠興は光秀の娘である妻の玉子を、野間の奥味土野(竹野郡弥栄町)に幽閉した。 

細川忠興は直ちに羽柴秀吉に手紙を出し、光秀討伐の協力を誓い丹後の軍勢を集めたが、出陣を待たずにその13日、光秀は、秀吉のため滅ぼされてしまった。

 

7月に入ってまもなく、幽斉と忠興は上京して信長の跡を弔い、秀吉に会った。 

 秀吉が『細き川こそ二つ流るれ』と下の句を、幽斉は即座に『御所車、ひき行くあとに雨降りて』 と上の句をつけたので、秀吉は大変満足して細川父子を心からねぎらった。これで細川の丹後十一万七百石は安泰となった。 

やがて、柴田・滝川征伐が始った。細川の武将米田監物は、秀吉の加勢として亀山攻めに参加し、玄蕃頭興元は「志津ヶ嶽の合戦」に馳せ向い、忠興は兵船を指揮して越前の国に向った。 

ところが志津ヶ嶽で中川瀬兵衛の討死、秀吉軍が敗れたと丹後に伝わった。 

弓木城にいた義俊は、この機会に細川の宮津の館を奪い取ろうと、兵船を用意して犬の堂沖(宮津の西入口)まで漕ぎ出したところ、後ろから早船が追いつき、誤報であったことを伝えたので一色勢は引き返した。 

 

まもなく越前方面の討伐を終えて、細川忠興は田辺に凱旋したが、一色義俊は凱旋祝いにも行かず弓木城から動かずにいた。そこで幽斉は思案の末、まだ完成していない宮津の館に出向いて婿の義俊の招待をすることにした。 

細川の重臣たちは交替で宮津の館に出向き、与謝郡一帯を支配し、奥三郡の一色の動静を監視していた。 

一色義俊の謀殺  (9月8日説)その弐

当時、宮津の館の在番は有吉将監であったが、忠興、興元兄弟をはじめ、米田壱岐(いき)守宗堅、松井佐渡守康之らの重臣が一族郎党を引き連れて出張(でば)り謀殺の計画を立てていた。 

「幽斉、老衰に及び余命の程も分りませぬ、婿と舅になったからには、命のある間に親子の対面を致しこの老人を喜ばせていただきたく・・・」幽斉はこういって義俊を案内した。 

天正10年9月8日(1582)騎士三十六人、雑兵三百余人を従えて宮津に着いた義俊は、雑兵を城外に待たせ侍どもを広間に残して書院に通された。 

まず、忠興と義俊が向かい合い、一色家の家老の日置主殿介の座は忠興の右側であり、うしろの襖一重隔てて仕手(討手)の士十七人がかくれていた。

他の大勢の侍は義俊を討ち取ると同時に、弓木城に攻めかかるため、玄蕃頭興元・松井佐渡守康之・立行是政らがひきつれて普請場のかげに待機していた。 

 忠興の太刀は、中島甚之允が持って出て脇に置いたが、柄の勝手が悪かったので米田宗堅が肴を運ぶついでに、わざと袴のすそを触れ、押しいただく拍子に少し鞘走ったのを押し込んで、忠興の手勝手のよいように置きなおした。 

いよいよ盃がでた。義俊が何気なく盃を押しいただいた瞬間、忠興は抜打ちに義俊の肩先から脇腹にかけて切りつけ、返す刀で主殿介に向った。

太刀は勢州信長作の三尺八寸余の業物で、一色義俊は、脇差を抜こうとしたがそのまま縁側に倒れ、 主殿介は驚いて逃出そうとしたが、中路市之允に討ち取られた。

 

弓木城に向かう計画については、先づ義俊の内室菊の方を取り戻すことが先決であった。

そのため玄蕃興元・松井佐渡守手兵を引きつれて須津村に馬を伏せ、宮津からの合図を待っていた。

菊の方は幽斉の娘であり、忠興兄弟にとっては妹である。

人質をとられていては弓木城攻撃の鉾先がにぶる、  この伏兵は烽火(のろし)を合図に、弓木城にかけつけ奥方を取り戻そうとしたが、城兵はこれを拒んで鉄砲を乱射し、奇手は死傷者続出し退却のやむなく弓木城を遠巻きに包囲した。 

「丹州三家物語」はこの時の模様を かの十騎余りの兵と、その仲間の地侍どもは、この烽火をみるが早いか米田監物に従って弓木に押し寄せ、城内に向って「御内室のお迎えとして米田監物ここまで参ってござる。この上はとやかく申さず、お渡し下され」と大音にて呼ばわった。

しかし城内からは一言の返事もない。城主稲富伊賀守は、天下に双ぶ者のない鉄砲の名手で、彼のねらい射つ弾に寄手はみるみるうちに多数の死者を出し、やむを得ず野田の橋詰まで退却した。 

一色義俊の謀殺(9月8日説)その参

 

「御内室様さえお渡し下さるならば、穏便に事すむよう、主人藤孝公の御前をうまく取りなしましょう」と再三交渉を続けている間に、一色の家臣が菊の方を人質にして、うしろの山から城を抜け出し但馬の国へさしていった、これを知った米田監物は、ただちに早馬をもってその後を追い、但馬の国の藤ノ森で追いつき、無事に菊の方を取り戻し宮津の館につれ帰った。供の侍は細川方に降り、あるいは都に走って秀吉の家臣となった。 

 

父幽斉や兄たちのもとに帰った菊の方は、夫義俊の最後の様子を詳しく聞き、次のように述懐した。

 あの8日の卯の刻(午前6時)妾(わたし)に向って、

「今日、はじめて舅の細川殿にお会いするのだが、この一色家と細川家は、先祖の代から親しい間柄で代々将軍にお仕えして、所々で合戦のある度にお互いに頼み頼まれて力を合せて来た仲らしく、古い手紙なども保存してあるが、今、たとえ孫子の末となったとはいえ、昔を思うと懐しい。その上、こうして親子の間柄となったのも深い宿縁というものか、不思議に思えて仕方がない」と、いつもよりやさしく言って馬鞍なども美しく飾らせ弓木を出ていかれました。 

  去年(天正9年)の夏の5月の頃、妾が一色殿に嫁いで以来、こんなに賑やかな供揃いで外出されたことはありませんので、妾も本当にうれしくて城の窓から見送って居りますと、須津の浜辺を通り山路にかかられたが、まだ朝霧も晴れないで段々お姿がかすかになり、とうとう生い繁った松のかげにかくれてもう供人さえ見えなくなったので心残りがして、自然に涙がこみあげてくるのをジッと辛抱して、たとえ人には見せなくとも女々しいことであると思ったから盃の用意をさせ、自分でも悲しみをまぎらせ女房(側に仕える女)たちも慰めておりましたのに、全く意外な事が起って、お亡くなりになったことは本当に悲しいことでございます。このような企みがあったことは、妾自身は夢にも存じませんが、義俊殿御最後の時さぞお恨みになっていたことだろう』 と、菊の方は毎日歎いておいでになりました。(丹州三家物語) 

 

菊の方の悲しみをよそに細川方の喜びは大きく、しかし敵とはいえ義俊は幽斉にとって娘の婿である、彼は家臣に命じて、義俊の遺骸を一色家累代の菩提所である上宮津の大円山盛林寺で葬らせた。法名「一色賞雲源忠」 

-一色義清 (吉原越前守、五郎)-

 

弓木城主稲富伊賀守は鉄砲の名手で、二十五才の時橋立明神で7日間の断食祈願を行い「盲(めくら)打ち」を会得したといわれ、闇の中でも狐や狼の鳴き声を聞いただけでも必ず射止めたと伝えられている。 

義俊の誘殺と同時に、弓木城を乗っ取ろうと考えた細川方の計画が不成功に終ったのは、この稲富伊賀守の鉄砲に妨げられ、菊の方を取り返すことができなかったのが一つの原因であった。 

細川方の作戦はここで一変し、ひとまづ全軍を田辺城に引きあげ、興元・松井・有吉の三手の水軍を組織して、海上から経ヶ岬を回って海岸から上陸し、弓木の城背後にある奥丹三郡の堅城を攻め弓木城の孤立化を計った。  

弓木城には、義俊の叔父吉原越前守一色義清が主従百二十騎をつれて入城した。 

大江・杉山・一色宗左衛門の三人は甥義俊の悲壮な最後を悔み歎く義清をなぐさめ、「義俊殿の最後は御覚悟の上のことです。この上はあなたのお考えを承りとうございます」といった。 

 

義清は、『家運つきて城を枕に死ぬることは、いささかも心残りとは思わない。建武3年、我が先祖の尊氏公が将軍の職につかれてから、義昭公に至るまで十五代、一色の家は八代、その間242年将軍の一族の列に加えられ、丹後の守護を賜った御恩は、我が一色一族、悉く生命を義昭公に捧げるともどうして惜しかろう。しかし、今天下は、平民である織田信長に奪われている。我々足利源氏の一統は、信長の家来となる理由はない。それを世間の者が、足利の残党などとけがらわしい名で呼ぶのが口惜しいのだ。 しかし、細川が丹後の守護に任命されてから5年間、一歩も国をゆずらず、明智、細川の連合軍と戦って勝つこと二十三度、そのため和睦もし、縁者ともなって、両家が並んで丹後を支配すること2年・・・。これが足利家に対するせめてもの御恩返し・・・。この気持ちは末代まで人々が汲み取ってくれるであろう。籠城の面々、どうかこの義清と生死を共にし、潔く討死してもらいたい 』

これをきいた城内の将兵は、あっぱれ九代の大将であると感じ合った。 

 

義清は名を一色五郎義清と改め、義俊の形見の家宝の鎧兜をまとって戦場に出ることにした。 

2月25日(一説、9月13日)大江・杉山両将は、義清の命により早朝から弓木城にはせ集る軍士を検閲し、その名を到着順に記録させた、石川文吾秀澄が書き上げた一色党および地侍の数は八千五百余人に達した。  

 

-弓木城と一色五郎義清自刃-

 

一色の本城弓木は正面大手口に野田川をめぐらし、対岸の倉梯山に出城を構え、江木片岡の諸城を配し、後方搦手に大内峠の天険を控え鉄砲の名手稲富伊賀守が固めて敵を一歩も近づけなかった。 

寄手の総大将細川忠興は宮津に本陣をおいて、弓木攻略の指揮をとっていた。 

田辺の水軍をひきいた石井五郎右衛門の一隊は、栗田の浜に上陸すると、小寺、高妻、宿野の山城をおとし入れ、9月13日、宮津の本陣に合流して弓木の正面に向った。 

こうして、攻防すでに十回を越えたが、細川勢はその度毎に撃退され、合戦はいつ果てるとも分らなかった。

ただ、奥丹三郡を切り崩して東上してくる興元勢を迎えて9月28日に至った。  奥三郡の諸城をおとしいれた興元勢は一色家の城代大江越中守と三重(中郡大宮町)の留守城を破って、大内峠の嶺越しに本城弓木の搦手から逆落しに攻めかかった。 この一戦で大江越中守が倒れ、杉山出羽守も戦死し将兵の死傷は数え切れない。

 

弓木落城はもはや時間の問題でたとえ叶わぬまでも、忠興の本陣に切って入り一太刀あびせて切り死にしようと、大将義清は手兵百余騎をまとめ、正面の野田川口を打ち破り須津峠を越え、敵将忠興の本陣猪ノ岡八幡を急襲した。

驚いた本陣守護の細川勢は、義清を宮津川(大手川)堤に食い止め、両軍の間に激しい死闘が展開した。その時、弓木城をおとし入れた松井・有吉の一隊が本陣に馳け戻り一色勢の後方に迫った。

一色方は思いがけぬ、挟み打ちに将兵の殆んどが討死し、一色五郎義清も数ヶ所に深傷を負った。

義清は忠興の本陣を目前にしながら、力尽きて川岸伝に海岸を走り下宮津の漁家の木蔭に入って自刃した。 

義清の自刃の地は、後の宮津鶴賀城内三の丸の北東であるといい、老木の下に碑石が建てられている。

建武2年に一色範光が足利尊氏から丹後の守護に任じられ、八田の建部山に城を築いてから247年目の、天正10年(1582)9月28日(一説5月28日)丹後一色党は滅亡した。