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宮津と京極家とのつながり
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名で丹後宮津藩(宮津城)初代藩主。
足利尊氏に仕えた京極高氏の活躍で一大勢力を築くも、「応仁の乱」後に内訌などにより一時期衰退するが戦国時代に、京極高次(正室は淀殿の妹「初」)・高知兄弟が信長・秀吉・家康に仕えて家を再興し外様大名としての地位を固め、弟京極高知は「関が原合戦」での軍功により丹後12万3000石を家康に与えられ、宮津城を本拠とする。
その後、領地を三人に分け、嫡男高広に丹後京極家の宗家として、丹後宮津藩7万8千2百石を継がせた。
高広は承応3年(1654)、嫡男高国に家督を譲って隠居し、安智斎と号していたが隠居後も藩政に介入し息子高国と対立し、激しい親子喧嘩の末、三代藩主である息子高国を武家諸法度の「不孝」の条項と領民に対する悪政で提訴する。
幕府の裁定は父に対する不孝、一類中への「不和・不通」、家臣・領民に対する「困窮の仕置」を理由とし、将軍家綱政権下では最大石高の改易処分となり高広は流浪の末、京都東山に閑居し死去。
丹後宮津藩主高国は盛岡藩預かりの身になり、延宝三年(1675)享年60歳で亡くなりますが、幕府から預かっている罪人ですから遺体を処分するわけにはいかず幕府の検使を待ち、死骸の検分を受けてから土葬するように命じられたようですが・.「公儀御預人京極丹後守高国死去」として『盛岡藩雑書』に記録が残っています。
宮津城本丸御殿の玄関(京極家の家紋)
江戸大名京極氏と一族の家紋
四つ目結(宇多源氏佐々木氏流)
佐々木氏の場合、戦国末期に没落した六角氏が本来は嫡流で、 京極氏はもっとも嫡流に近い庶子家という家格で、嫡流六角氏は「隅立四つ目結」紋を用い、庶子家の京極家は 「平四つ目結」を用いて嫡庶の区別は厳格になされていた。江戸時代になると 京極氏が佐々木氏の嫡流の扱いを受けるようになり、京極家の分家(庶子家)は 宗家をはばかって本来は嫡流の家紋であった「隅立目結」を用い、さらに嫡流から遠い 存在は「繋ぎ四つ目結」を用いるという風に、京極氏を中心とした家格付けで家紋の 区別がなされた
・嫡流:若狭→松江→龍野→丸亀藩
・高知流:宮津→田辺→豊岡藩
・丸亀藩支流:多度津藩
・宮津藩支流:峰山藩
京極 高知
宮津城は、天正8年(1580)細川氏(藤孝・忠興)の入国築城にはじまり、次いで入国した京極氏が藩主高広の代に拡張・完成した。
細川城の竣工はその入国1、2年の後とみられ、京極城の完成は寛永年間と伝えている。
京極城の城縄張は、本丸・二ノ丸・三ノ丸を備え、古絵図等により、今の町割にほぼ対比させることができる。
巨石は、この南方80メートル余りのところにあった本丸入口くろがね門の袖石垣の一つである。
その前のくぼみのある石は大手橋橋脚の礎石、その左横にある波状の石柱はこの北側波止場の船つなぎ石である。
現存する宮津城構築物としては、この南方10メートルのところに本丸北部石垣の一部が地上に顔を出している程度である。
近江守護の名門京極高吉の次男として生まれる。早くから豊臣秀吉に仕え、その功により羽柴姓を許されて羽柴伊奈侍従と称す、文禄2年(1593年)、義父毛利秀頼の遺領を(秀頼の嫡男秀秋を差し置いて)任され、信濃飯田城主として6万石を領し、従四位下侍従に任ぜられた。
また、領内にキリスト教の布教を許可し、のちに自身もキリシタンとなっている。文禄3年(1594年)に10万石に加増される。秀吉死後は徳川家康に接近し、慶長5年(1600年)には岐阜城攻めに参戦し、「関ヶ原の戦い」では大谷吉継隊と戦うなどの戦功を挙げた。
戦後は丹後12万3000石を与えられ、国持大名として京極丹後守を称し田辺城に入城後、宮津城に拠点を移す。
高知は、はじめて普甲峠を越えた時、その名が親不孝の不孝を連想させるといって千歳峠と改名した。
またある日、高知は家臣一同を集め、「丹後の国は、神仏の加護によって栄えて来た国である。平和を願うものは、この先例を忘れて自分勝手な説を立て、神仏を軽んじてはならない。天皇や、将軍の政治は、皆、この神仏の心から生れたものである。われわれ臣下や群民は、決してこれにそむいてはならない。われわれは、表面は武士としての家風を本とし、内面では神仏の二法を信仰すべきである。第一には家務を果すこと。第二には聖賢の書物を読み、書経(しょきょう)、前漢書(ぜんかんじょ)、後漢書(ごかんじょ)など中国の学問に励むべきである」と訓示した。
高知は過去数年間信州の山中にあって、山ばかり見て暮していたので、転任して広々とした海を眺め、同じ田舎であっても前任地に比べると、この地は全く都のような気がするといってよろこんだそうです。
慶長7年(1602)高知は、丹後全域にわたって精密な検地を行なった。
豊臣秀吉の方法に習って、六尺三寸を一間、一間四方を一歩、三十歩を一畝、十畝を一段、十段を一町とした。
従来の代(だい)、束(そく)、籾数(もみがら)、永楽銭による貫高などを全廃し、新たに産米の梏量を基礎にして草高(くさだか)といった。
草高を決めるには、まず、耕地を測って田畠の面積をたしかめ、次に地味や土質、便不便などを参考として、上、中、下、下下(げげ)等、等級を定め、等級ごとに、二、三ヶ所の稲の坪刈(つぼかり)(一歩=一坪の稲を刈る)をして玄米に調製し、その量をたしかめ、その角量(石盛、こくもりに土地の等級毎に全面積を乗じてそれぞれの生産高(石高)を算定し、村や町の石高を合せて各町村の草高を決定した。
高知は長子の万作丸が死んだ後に男子がなかったので妹の二男高通(高道たかみち)を婿養子に迎えたが、その後高三(たかみつ)と高広が生れた。
高知は田辺に入国してから22年目の元和8年8月12日(1622)に病死した。
高知は家臣岩崎豊後守に遺言状をつくらせ、公儀(幕府)に、丹後十二万三千七十五石を高通、高三、高広に分け与えることを願い出た。
高通の実父は杤木兵部少輔、母は高知の妹であるので、一万石を与えて嶺山(みねやま)に封じた。
高三は妾腹の子であったので三万五千石をもって田辺に封じた。
高広の母は毛利秀政(一説には毛利河内守秀頼)の娘で氏素姓が正しいから、これを相続人と定め、残りの七万八千七十五石の宮津を与えた。
元和9年(1623)徳川家光が三代将軍になり、この年から宮津の館を拡張して海岸に築城を始め、寛永2年(1625)に城廓がほぼ出来上がったので、高広はここを丹後の本家として田辺城から移住した。この城の形は鶴の舞う姿に似ていたので「舞鶴城」といった。 領地は嫡男・高広、三男・高三、甥で婿養子の高通の3人に分封し、宮津藩・田辺藩・嶺山(峰山)藩の3つに分割された。
大頂寺は今から約400年前、豊臣から徳川の時代に変わろうとする慶長11年(1606年)、丹後國宮津藩主京極高知により、京極家の香華院(菩提所) として建立された。
京極高広
父高知の遺言によって七万八千七十五石、丹後守を継いだ京極高広は、寛永二年、新装成った宮津城に移った。
領地は、与謝、中、竹野、熊野四郡と、加佐郡の一部、村数百五十八ヶ村、人口七万五千百五十余人であった。
元和9年(1623)参議岡山藩主池田輝政の娘を迎えて妻とした。
義父池田輝政は、徳川家康の外孫に当り有名な「切支丹大名」で、その娘を妻とした高広もキリスト教の信者になっていたのであろう。
寛永8年(1631)には、領内の真言と山伏をことごとく領外に追放し、高広は、竹野郡小浜の里(網野町)曹洞宗湖秀山竜献寺(こしゅうざんりうごんじ)の境内に、「一覧亭」という別荘を建て、離湖(はなれこ)の佳景を楽しんだ。
寛永14年(1637)島原の乱が起り、翌15年には「切支丹」の取締りは一層きびしくなったが、領内の取締りは形式的なものであった。
高広は、丹後特産の精好(せいこ)織物(絹)に運上(うんじょう:税金)をかけ、更に、精好織(せいごおり)から絹紬(きぬつむぎ)に転向するよう命じた。
承応3年4月23日(1654)[一説には明暦2年(1656)]高広は眼をわずらったので所領を高国にゆずり、惣村(宮津市)に広大な屋敷を構え、剃髪し安智斉と号し一万石の隠居料をもって引退した。
京極高国
-京極高国(対立と粗暴)-
高国が家を継いだ当座は政治にも熱心で、上を敬い、下々の者を大切にしたので、家来は勿論、百姓町人まで、今までの京極家に対する反感を忘れてよくなついていた。
しかし、いつしか慢心して親兄弟・家代々の近臣をしりぞけ、新参の者を引き立て領民を酷使・搾取し、また家臣に与える俸禄からさえ利息を取るという有様であったので、領民は非常に苦しんだ。
この原因は、父の安智斉高広が、政治のやり方についてあれこれと批判する高国を敬遠し、三男の信濃守高勝に後を継がせようとしたが、幕府が許可しなかったので、やむなく嫡子高国に相続させたので、高国に対する態度が冷淡になったことにあるようで、 高国も親を粗末にし弟を憎むようになり、対立が絶えなかった。
こうした家庭内の不和、不満が領民に対する粗暴な態度となって現れた。
ある日、高国は湖秀山竜献寺の一覧亭に遊んだ。
湖中に網を入れ、取れた魚を寺の中に持ち込んで料理をさせ、酒宴のさかなにした。
みかねた寺僧が側近の家来を呼び「殺生禁断の場所で魚をとるばかりか、肉食をはばかる寺内に持ち込んで、これを料理して酒のさかなになさるとはひどすぎます。どうかこればかりはお慎み下さい。」と申し出たが、京極高国は、「無礼者、領主の行ないに対し、坊主が何を言うか、すぐにひっ捉えてしまえ」と怒り、 寺僧は、かろうじて本尊仏を奉じて木津の庄(網野町)に逃げたが、高国は竜献寺の伽監に火をつけて焼き払ってしまった。
京極高国は、惣村にいる父の安智斉にまで干渉したことで、たまりかねた安智斉は寛文6年(1666)「諸悪事四十八ヶ条」を書き、訴状を公儀(幕府)に差出すことに決めた。
これを知った家来の分部玄部(わけべげんぶ)は、高国に「外の事は如何様にも弁解ができますが、親不孝だけは言いわけが立ちません。」といさめたが、如何にいさめても高国が聞き入れる様子がなかったので、分部は鉄砲で自殺した。
-京極高国(幕府の裁定・明渡し)-
幕府は安智斉から再三訴状を受取っていたが、藩内のことはなるべく藩で解決させる方針で、黙殺していたが、「諸悪事四十八ヶ条」が提出されたので幕府はいよいよそのままにしておくことができなくなった。
寛文6年3月(1666)高国が参勤交代で江戸に着くのを待ち、5月3日、伝奏屋敷に呼び出し、四十八ヶ条につき逐条問いただした。高国は、四十七ヶ条までは弁明したが、親不孝だけは申訳が立たなかった為、高国は所領を没収され、奥州南部藩にお預けになった。
5月9日、江戸表から飛脚が着いて一大事を知った宮津藩では落合主税介ら五人の発起で、家中全員を本丸に集め、「殿様から書状が着かない間は、城の明渡しを拒んで籠城しよう」と決議し。籠城に賛成し調印したもの六十一人。
籠城不参加の者、幕府の命に従うもの、裏切者、二十三人もまた連判状をつくって、安智斉の召抱えの浪人今井治郎左衛門を使者として、城受取役松本主殿正(とのものしょう)、小出伊勢守に差出した。
この度の出来事は私の不調法で致し方ないが、家中の者を流浪させることが何よりも可愛想である。
いうまでもないことであるが、宮津城のことは、御上使のお差図通り明け渡すべきである。
5月6日 丹後守 高国 書状が5月16日に、落合、沢、伊木、中江あてに届き籠城騒ぎも無事おさまり、寛文6年6月5日(1666)城は明け渡された。
城受取りの御上使青山大膳亮(すけ)幸利(尼崎城主)大目付黒川丹波守正直。
城受取役本丸松平若狭守康信(笹山城主)二の丸松平主殿頭(かみ)忠房(福知山城主)三の丸松平伊勢守吉久(園部城主)安智斉が、幕府が父親の気持をくんで、所領は三男高勝に譲れというだろうと考えていたが喧嘩両成敗になった。
高勝は閉門となり高国と長子の近江守高頼には三千俵、安智斉と他の子供には各々黄金二百両が与えられたにすぎなかった。
-京極高国(財の配分)-
高国の子どもの中松之助五才は松平相模守に、万吉四才は松平新太郎に、杢之助三才は伊達近江守に、十九才、十六才の二人の娘は松平亀千代にあずけられた。
当時の宮津城内の黄金は四万二千二百四十四両で、この内から家老はじめ掃除坊主、仲間(ちゅうげん)、厩(うまや)番に至るまで、禄高に応じて手当金が分け与えられ、縁故をたよって、他領に立去る者には、宿泊の便宜や、道中の安全を計って、それぞれ証文が与えられた。
領内にとどまることを希望する者には、よく身分を取り調べた上、そのまま召抱えられ、家中の者の武具、諸道具は所有者の自由にまかせ、立ち退いた空屋敷は、適当な町人や百姓に留守番を命じた。
また、お蔵の種籾(たねもみ)は、小作、借用希望者に、証文と引き替えに貸し与えた。
宮津藩七万八千百七十五石は幕府料(御料御蔵入:ごりょうおくらいり)となり、但馬の国、生野代官所の支配になり、加佐郡波見村に出張所が設けられた。
中村杢右衛門が初代代官となって就任し、出張所の元締めは猪飼治郎兵衛、次に藤林市兵衛となり、部下七人を指揮して支配した。
南部藩におあづけになっていた高国は9年後の延宝3年(1675)配所の南部で六十才で世を去り、また安智斉高広は、その後京都の岡崎に庵をつくって住んでいたが、11年後の延宝5年に亡くなった。
丹後京極の本家、宮津七万八千百七十五石はこうして僅か41年で終った。
千菊姫(京極高国の正妻)
千菊姫(せんぎくひめ、寛永3年(1626年))は、伊達政宗の四女で母は側室の妙伴(村上政重の娘)
寛永3年(1626年)、仙台城で政宗の第四息女として生まれ名は千菊と命名し、母の妙伴は23歳位、父の政宗は60歳の時の子である。
寛永12年(1635年)、まだ10歳で、嫁入り適齢期にはまだ早かったが、丹後宮津藩主京極高広の嫡子京極高国の正妻となることが正式に決まり、その年の4月6日に婚礼が行われた、夫となる京極高国は20歳の青年であった。
輿入れの際、伊達家臣の斉藤勝成と子の斉藤勝則らが千菊姫の付人となり随従し京極家の家臣となり、また、斉藤勝則は千菊姫の奥小姓として奉公することとなった。
嫁いで翌年の寛永13年(1636年)春、伊達家江戸屋敷の父政宗が重態に陥ったとの報が丹後国宮津にもたらされた。
千菊姫は急に旅立つことかなわず、父に見舞の書状をしたためる。書状は5月23日に政宗のもとに無事届き、それを読んだ政宗は涙を滂沱としたたらせ大に感激したという。しかし、政宗は翌日の5月24日に病没する。
夫の京極高国は、寛永20年(1643年)、従四位に昇進しその年、嫡男の京極高規が産まれている。
承応3年(1654年)、夫婦の間は睦まじく、4男2女を授かったという。
明暦元年(1655年)8月7日、千菊姫は京極家江戸屋敷にて病没する。享年30歳、法名は泰念日普本理院と号し丹後の宮津に葬られた。
なお、京極家はその後、寛文6年(1666年)に親子の不和争いから領地没収となり改易し京極高国は盛岡藩の南部氏に預けられ蟄居。延宝3年(1675年)12月24日に死去する享年60歳。のちに夫婦とも江戸谷中の日蓮宗長燿山感応寺(現・護国山天王寺)に合祀改葬されたという。
また、千菊姫に随従し京極家臣となっていた斉藤勝則は、伊達家に戻り、再仕官がかなっている。