盛林寺

『盛林寺』

上宮津城主、小倉播磨守の菩提寺として天正5年(1577)宮津大久保谷に創建された。

開山は趙室宋栢(ちょうしつそうはく)和尚、それをたすけた小倉氏は、丹後守護一色家の重臣で、小倉氏は、天正六年十月、細川氏に敗れて滅んだ。

細川氏は天正八年八月、丹後の大名として入国、宮津城をつくり、盛林寺はその庇護をうけ、盛林寺が大久保谷から上宮津に移ったのは慶長八年(1603)で、場所は現在地の南に隣接する「寺谷」で、盛林寺が大久保谷から上宮津に移ったのは、慶長八年(1603)で、場所は南に接する「寺町」です。

当時細川氏は九州中津(大分県)に移った後であり、更に現在地に移ったのは、貞享二年(1685)であった。

盛林寺開山趙室宗栢和尚

盛林寺は現在越前瑞洞院(福井県武生市)を本寺と称しているのは、開山趙室和尚が瑞洞院四世であったからである。

和尚は慶長元年(1596)十二月示寂にこの地に来て、細川氏を迎えたと思われる。以来、細川氏と親しく盛林寺

には今に幽斎の子の像を伝えている。平成八年十一月に開山四百年忌が行われました。

三界唯一心塔婆

長い間、寺谷に伏せったままになっていたが、開山趙室和尚の建立されたものだと判り、移設された。

開山趙室和尚の許に学問を求めてきた十三人の諸法師の名が刻まれている。

光秀首塚

このあたりの古塔婆群には、盛林寺が移設される以前のものも多く、首塚は大久保谷から移されたのかも知れない。

光秀の子玉は、細川忠興の妻でガラシャ夫人として知られており、光秀が山崎合戦に破れて殺されたのち、ここ宮津の地に届けられて、この寺の供養をうけたという。